アイーダ~傑作か愚作か

傑作か愚作か

華やかな演奏効果にあふれた作品だけに、数あるヴェルディオペラの中で最もポピュラーな作品だと言えます。それ故に、これを持ってヴェルディの傑作と評する人もいる中で、逆につまらぬ演奏効果だけに彩られたヴェルディ最大の愚作と切って捨てる人も多い作品です。
確かに、このオペラを「スペクタクルオペラ」としてとらえて、派手派手しさにのみ工夫を凝らしている演出も少なくありません。そういう舞台では、花火は上がる、象さんは出てくる、耳もさけよとばかりにアイーダトランペットは叫びまくるで、これはホントに「ヴェルディ一世一代の恥さらし作品」だなと思ってしまいます。
しかし、そんなアホウな演出は論外として、じっくりと音楽にのみ耳を傾けてみると、このオペラはその様な単純な「スペクタクルオペラ」の範疇だけで理解できるような代物ではないことに気づかされます。

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Giuseppe Verdi

このオペラの底流を流れているのは、社会を成り立たせているあれこれの約束事の世界、言葉をかえれば「~であらねばならない」と

いう価値観と、個人を貫いている本音の世界、言葉をかえれば「~でありたい」という価値観の葛藤です。
この前者を代表するのが司祭長のラムフィスとアイーダの父であるエジプト王のアモナズロです。逆に後者の立場を代表するのがアイーダとラダメスです。このオペラの中で、この両者の立場は最後まで揺らぐことはありません。

複雑な立場にあるのがエジプトの王女であるアムネリスです。

アムネリスのラダメスに寄せる愛は真実のものです。しかし、その愛はラダメスからの愛という形ではなくて、凱旋将軍であるラダメスに対する「褒賞」という国家の「約束事」として成就されようとします。つまり、「~でありたい」という願いが「~であらねばならない」という約束事の世界で成就してしまうのです。
しかし、アムネリスのラダメスへの愛は真実であるが故に、その様な約束事の世界として成就されることに彼女は我慢ができません。かといって、権力者であるアムネリスは本音の世界においてラダメスの愛を得ようなどとはしません。そうではなくて、彼女は己が持つ権力にすがってアイーダとラダメスの仲を裂こうとあれこれ画策してしまう女性なのです。
彼女は己の画策の末に愛するラダメスが祖国への裏切り者として死罪が下されようとするときも、アイーダと別れてくれれば命だけは助けると懇願してしまう女性です。
つまり、彼女だけは二つの価値観の中で身を引き裂かれているのです。

おそらくこのオペラのクライマックスはラストシーンです。(決して凱旋のシーンではありません^^;)
「~でありたい」という価値観は「~であらねばならない」という価値観の前に敗れ去ります。エジプトという国家を体現するラムフィスの前にアイーダとラダメスは生きながらに埋められるという死罪を科されて敗れ去るのです。
しかし、その死は同時にエジプト王女アムネリスを通して、「~であらねばならない」という価値観は決して個人の心の世界を屈服させることができないことをも浮き彫りにします。
ヴェルディ自身が考案したというラストの地下と地上の二重構造の舞台はその事を鮮やかに視覚化してくれます。

私はこのラストシーンの天国的とも言うべき美しい幕切れを聞くたびに、その美しさに酔いながら、アムネリスはこの後どの様にして生きていくのだろうかと思いを巡らせてしまいます。

もしも彼女がラムフィスのように約束事の世界で毅然と立っていればこの悲劇はおこらなかったはずです。ラダメスを「愛する人」としてではなく、「凱旋将軍」として夫にむかえていればこの悲劇はおこらなかったはずです。
しかし、彼女はラダメスの「心」を求めました。
すべての悲劇はこの一点からはじまります。

そして、その悲劇的結末は、いかなる権力を持ってしても「心の真実」を屈服させることができないことを彼女に教えました。
死を前にして、「おまえはあまりに美しい」と語りかけ、重い石の扉を死にものぐるいで押し上げてアイーダだけは助けようとするラダメスの姿をアムネリスはどの様な思いで地上から眺めたのでしょうか。
結局彼女はエジプトの王女として約束事の世界で生きていくしか術はありません。しかし、彼女はその世界の空しさを嫌と言うほど知ったのですから、その後の生の何という空しさでしょう。

このオペラは決して外面的効果だけを狙った「スペクタクルオペラ」ではありません。疑いもなく、ヴェルディのすべての作品に共通する深い人間のドラマです。そして、その様な人間ドラマとして演出すれば、イタリアペラの総決算とも言うべきすぐれた内容を持った作品として私たちの前に姿を表してくれます。
しかし、外面的な効果に目を奪われて、その効果の追求にのみ興味が集中すれば、いとも容易くこの作品は「世紀の愚作」になってしまう危険性を内包していると言うことも留意しておかなければなりません。

テバルディとモナコと言う黄金の組み合わせ

ヴェルディ:アイーダ エレーデ指揮 ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団 1952年録音 S:テバルディ T:モナコ

このオペラの主役は二人の女性、アイーダとアムネリスなのですが、それにからむ若きエジプトの司令官ラダメスがなかなかにかっこいいのです。

このオペラは「スペクタクルオペラ」の代表としてその派手な演出や豪勢な音の響きがもてはやされるのですが、よく聞いてみると、その様な薄っぺらい「効果」だけの音楽ではなくて、その根底に「個人」と「社会」の葛藤という深いテーマが流れていることに気づかされます。その意味では、世間的な名声や権力に背を向けて、ひたすらに一人の女性への愛を貫いて死んでいく男はかっこいいのです。
それも、祖国への裏切りという大罪を背負わされながら、あえて一言の弁明もしないでアイーダへの愛を貫いて死んでいくラダメスはかっこいいのです。

それ故に、このラダメスにそこまでの決心をさせるアイーダは美しくなければいけないのです。

ヴェルディは、この作品のラストシーンでラダメスがアイーダに「おまえはあまりに美しい」「死ぬんだって、そんなに若く美しいのに」と語りかける場面に対して「私のプリマドンナは美しいが、いつか、そうでなかった場合・・・観客が冗談をとばすのではないか。この瞬間はとても重要だから・・・言葉をかえられないか」と台本作家に伝えています。
その後どのようなやりとりがあったのかは不明ですが、最終的にはそのままで台本が仕上がっています。
それはそうでしょう、「美しくない」アイーダというのは存在してはいけないのです。

そういうことを考えると、カラスとテバルディはアイーダ役としては双璧でしょう。カラスの深い感情表現をとるか、テバルディの瑞々しい美声をとるかは好みが分かれるでしょうが、この二人は今もって他を寄せつけない圧倒的な存在感を示しています。
そして、ラダメス役としてはなんと言ってもモナコを第一に指折るべきでしょう。「黄金のトランペット」と呼ばれた彼の声は男の意地を貫き通した若きラダメスに最も相応しいように思います。

エレーデ指揮によるこの録音はその様な二人、テバルディとモナコが顔合わせをしたという点で大きな価値があります。もちろん、テバルディに関して言えば後のウィーンフィルとの録音の方がより好ましく思えるかもしれませんが、このモノラル録音の方もなかなかに魅力的です。
ただ、ヴェルディの他のオペラと違ってオーケストラにもそれなりの表現力が求められる作品だけに、このイタリアのオケがいささか非力にすぎることが残念ではあります。


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