桜巡礼(2)~弘川寺(大阪 河南町)の桜山

弘川寺は、大阪南部の河南町の山奥にひっそりとたたずんでいるお寺ですが、あの西行入滅の地として「知る人ぞ知る」お寺でもあります。

隅屋桜:親桜は絶えたが子へと命は繋がれています。

西行と言えば真っ先に思い浮かぶのはこの歌でしょう。

「願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃」

この歌は西行辞世の歌と思われている方も多いのですが、実は、彼が亡くなる10年ほど前に、己の願いとして詠まれた歌だそうです。そして、この歌のように彼は73才を迎えた如月の16日にこの世を去ります。
如月の望月(2月15日)と言えばお釈迦様の入滅した日ですから、彼はその後を追うようにこの世を去ったことになります。

西行と言えば、将来を約束されたエリートとしての地位を捨てて、23才で全てのものを捨て去って出家したことはよく知られています。そして、その突然の出家の理由は後世の人々によって様々に語られてきました。
その中で、個人的に一番しっくり来るのが「失恋説」です。
いや、「失恋」という言葉は軽すぎますね。もっと正確に言えば「女の裏切り」と言うべきでしょう。

裏切られた相手は「待賢門院璋子」だと言われています。鳥羽天皇の中宮であり、崇徳・後白河両天皇の母だった人ですから、いくら北面の武士のエリートであっても身分違いだと言わねばなりません。
しかし、この「璋子」は男関係に関してはとかく噂の絶えぬ人でした。
しつこく自分に熱い視線を投げかけてくる若き西行に興味を持って一夜を過ごしたことは十分に考えられます。

一番上の駐車場付近の桜

おそらく若き西行は有頂天になったことでしょう。そして、2度目に忍んでいったときに「璋子」から「あこぎ」という言葉を投げかけられます。「あこぎ」という言葉は今でも「あこぎな奴」みたいな使われ方をしますが、西行の時代においてはもっと強い意味を含んだ言葉だったようです。
一般的に「あこぎ」とは「厚かましい」「図々しい」「しつこい」などと言う意味があるようなのですが、「若いボクちゃん、なに調子にのってんの!」みたいな感じでしょうか。同じふられるにしても「ごめんなさい」なんかとは違ってかなり破壊力のある「言葉」です。

西行はなんでも出来る人でした。
若くして「歌人」としての才能もあり、武人としても「流鏑馬」の達人であり、「蹴鞠」の名手でもあったと言われています。さらには、容姿端麗、将来を約束された裕福な「北面の武士(上皇直属の近衛部隊)」だったのです。
こういう何でもできる男というのは往々にして自我が目覚めないものです。
これは不思議な話ですが、何でも自分の思う様に事が運べる男というのは自他の区別がいつまで経ってもつかないのです。

立派な山桜がたくさん残っています。

これとは逆に、何をやっても上手くいかない男は、それ故に他者とは違う「自分」というものを意識せざるを得ません。
ですから、西行のような男が自我に目覚めるためには痛切な挫折体験が必要なのです。そして、その特効薬こそが「女の裏切り」なのです。
自我の目覚めない男の目を覚ましてくれるのはいつの時代においてもそれは「女」なのです。

そして、こういう何でもできる男は頂きが高いがゆえに、目覚めたときの谷も深いのです。
もちろん、これだけが出家の理由だとは思いません。時の権力争いや友の死など様々な要因が重なったことは想像できるのですが、それでも、この「出家」という思い切った決断へと彼の背を最終的に押したのは手酷いまでの「女の裏切り」だったはずです。

西行庵跡地に咲く桜

そんな西行の漂泊の旅の最期の地となったのがこの弘川寺でした。
しかし、その事も長い年月の間に忘れ去られ、それが再発見されたのは江戸中期の事だと伝えられています。
再発見したのは、西行の歌を心から慕う歌僧「似雲法師」でした。

彼は、この寺に西行の墳墓を発見し、それを弔うためその墓を囲むように1000本の桜を植えました。
その桜は今に至るも大切に保存され「桜山」と称されるようになりました。残念なのは、今はその桜の大部分がソメイヨシノに入れ替わっていることですが、それでも西行が愛した山桜も数多く残っています。

桜山の最上部。遠く河内の町並みを眺めることができます。

花に染む心のいかで残りけん捨て果ててきと思ふわが身に

西行にとって「裏切られた女」のことなどはとうの昔に忘れ果てたことでしょうが、最後まで「花に染む心」だけは捨てきれなかったのです。


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