万葉集を読む(5)~山上憶良「日本挽歌」(4)

前回は「色々な意味での様々なイレギュラーの背景には、これに先立つ「前置漢文」に注目する必要があると言うことなのです」として「続く」としたのですが、よく考えてみると「前置漢文」と言われても大多数の人には何のことか全く分からないので(私も講座に参加して始めて知りました^^;)、それってとても不親切な終わり方だったと反省をしています。

「前置漢文」とは、憶良の「日本挽歌」の前に配置されている「漢文」のことです。

盖聞 四生起滅方夢皆空 三界漂流喩環不息 所以維摩大士在于方丈 有懐染疾之患 釋迦能仁坐於雙林 無免泥洹之苦 故知 二聖至極不能拂力負之尋至 三千世界誰能逃黒闇之捜来 二鼠競走而度目之鳥旦飛 四蛇争侵而過隙之駒夕走 嗟乎痛哉 紅顏共三従長逝 素質与四徳永滅 何圖 偕老違於要期獨飛生於半路 蘭室屏風徒張 断腸之哀弥痛 枕頭明鏡空懸 染筠之涙逾落 泉門一掩 無由再見 嗚呼哀哉 愛河波浪已先滅 苦海煩悩亦無結 従来猒離此穢土 本願託生彼浄刹

万葉集というのは日本古来の歌を集めたものだと思っていたのですが、このような「漢文」も収められていたとは知りませんでした。
そして、この漢文が一般的に「前置漢文」と呼ばれるのは、この漢文が憶良の手になるものであると考えられていて、それが「日本挽歌」の前に配置されているので「前置漢文」と呼ばれるようになったようなのです。

ただし、これでは全く意味が取れませんので、読み下し文にするとこのようになるようです。

盖(けだ)し聞く、四生(ししやう)の起き滅ぶることは、夢の皆空しきが方(ごと)く、三界の漂ひ流るることは、環(たまき)の息(や)まぬが喩(ごと)し。
所以(かれ)、維摩大士は方丈に在りて、染疾(せんしつ)の患(うれへ)を懐(いだく)ことあり、釋迦能仁(しゃかのうにん)は、雙林(そうりん)に坐して、泥洹(ないをん)の苦(くるしみ)を免(まぬが)るること無し。
故(かれ)知る、二聖(にしょう)の至極も、力負(りきふ)の尋ね至るを拂(はら)ふこと能はず、三千の世界に、誰か能く黒闇(こくあん)の捜(たづ)ね来(きた)るを逃れむ、と。
二つの鼠競ひ走り、目を度(わた)る鳥旦(あした)に飛び、四つの蛇争ひ侵して、隙(げき)を過ぐる駒夕(ゆふべ)に走る。嗟乎(ああ)、痛(いたま)しき哉。
紅顏は三従と長(とこしへ)に逝(ゆ)き、素質(そしつ)は四徳と永(とこしへ)に滅ぶ。何そ圖(はか)らむ、偕老(かいらう)の要期(えうご)に違ひ、獨飛(どくひ)して半路に生きむことを。蘭室(らんしつ)の屏風は徒(いたづ)らに張りて、腸を断つ哀しび弥(いよいよ)痛く、枕頭の明鏡空しく懸りて、染筠(せんゐん)の涙逾(いよいよ)落つ。
泉門一たび掩(おほ)はれて、再(また)見るに由無し。嗚呼、哀しき哉。

理詰めです。
それはもう徹底的に理詰めであり、その「理」によって妻を失った旅人を慰めようとしています。

この「前置漢文」には作者が記されていないのですが、前半が仏典から、後半は儒教から「慰めのための理」を引用していますから、非常に豊かな学識を持った人物だったことが想像されます。また、その内容は明らかに、この後に収録された「日本挽歌」との深い関わりを持っていますから、おそらくはこの漢文も憶良の手になるものだろうと考えられているのです。

「盖し聞く、四生の起き滅ぶることは、夢の皆空しきが方く、三界の漂ひ流るることは、環の息まぬが喩し」と述べているのは仏教の輪廻転生の価値観であり、その価値観を裏付けるために維摩大士と釈迦という「二聖」を引き合いに出して、彼らの様な偉大なる存在であってもその定めから「免るること無し」と述べているのです。

後半の「二つの鼠競ひ走り、目を度る鳥旦に飛び、四つの蛇争ひ侵して、隙を過ぐる駒夕に走る。嗟乎、痛しき哉。」以降は明らかに儒教的価値観です。そして、この価値観も「泉門一たび掩はれて、再見るに由無し。嗚呼、哀しき哉。」と結ばれます。
黄泉路への道が一度閉じられれば、それはもう二度と会うことは出来ないのだというのです。

そして、憶良はこれに続けて、次のような詞書きで「昔からこの穢土の世を厭うて来たではないか、だから、今こそ心からの願いを持って浄土の託そう」と結ぶのです。

愛河(あいか)の波浪は已先(すで)に滅(き)え、苦海の煩悩もまた結ぼほることなし。
従来(むかしより)、この穢土(ゑど)を厭離(えんり)す。
本願(ほんがん)をもちて、生を彼(そ)の浄刹(じょうせつ)に託(よ)せむ。

この徹底した「理詰め」による「慰め」はローマの哲人セネカの「慰め」を連想させます。

「そんなことが起ころうとは、わたしはぜんぜん思っていませんでした」とあなたは言うのですか。
起こりうるとあなたが知っていること、多くの人に起こったのをあなたが見ていることが、自分には起こらないとでも思っていらしたのですか?
芝居の科白(せりふ)ですが、こんな有名な詩句がありま す。
誰かに起こりうることは、誰にでも起こりうるのだ。—–ブリリウス・シルス
あの人が子どもを失ったのなら、あなたも子供を失いうるのです。
あの人が有罪を宣告されたのなら、あなたの無実も危険に曝されているのです。
いつわが身に襲いかかるかもしれぬ災厄を、実際にそれが来るまでは来るものと予想しないでいる。
この思い誤りがわれわれを欺き、われわれの力を奪うのです。

もし泣いて不幸に打ち勝てるものならば、みんなで一緒に泣きましょう。
毎日を悲しみのうちに過ごしましょう。
毎夜を眠ることなく悩みに費しましょう。傷ついた胸を両手で引き裂き、ついでに顔まで殴り付けましょう。
もしも悲しみが役に立つものなら、それをあらゆる種類の過酷な辛さに向けて行使しましょう。
しかし、どんなに泣いても死者を呼び戻せない限り、また、どんなに歎いても、揺るぎなく永遠不変の宿命は変えられず、死が、かつて運び去ったどんなものにも常にへばりついている限り、無益な悲しみは止めてください

おそらく、西洋の価値観と中国の価値観は近しいのだと思います。
そして、問題となるのは、果たしてこのような「理詰め」の価値観で日本人の心は本当に慰められるのかという問題です。

おそらく、憶良の答えは「No!」だったはずです。
「No!」でなければ、彼はこの「前置漢文」に続けて「日本挽歌」などと言うものを作って旅人に奉ることなどはなかったはずです。

いや、知識人であった旅人もまた、この前置漢文によって理屈としては妻の死を受け容れることが出来たはずです。
しかし、「理」で受け容れても、心の深いところで、つまりは「情」として受け容れるには未だ難しかったはずなのです。

憶良は、まさにその様な旅人に対して送ったのが「日本挽歌」だったというのが大谷先生の考えでした。

なるほど、その様な意味づけを持って前置漢文からそれに続く長歌と反歌五首を読めば、憶良が単なる「挽歌」ではなくて、題詞に「日本挽歌」とした理由が見えてきます。
つまりは、憶良は中国的な「理詰め」だけでは癒されることのない日本人的心情を知り抜いていて、その様な日本人の感情を本当に癒すことの出来る「挽歌」のスタイルを模索したのです。
そう考えると、この「挽歌」が「日本挽歌」である理由がはっきりと見えてくるのです。

そして、その日本人的感情にもっとも添った形で生み出された「慰め」の形が反歌五首だったのです。(続く)


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