万葉集を読む(9)~山上憶良「惑へる情を反さしむるの歌」(3)

父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞ道理(ことわり) もち鳥の かからはしもよ 行くへ知らねば 穿沓(うげぐつ)を 脱ぎ棄(つ)る如く 踏み脱ぎて 行くちふ人は 岩木より 生(な)り出し人か 汝が名告(の)らさね 天へいかば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏(むかぶ)す極(きはみ) 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極(きはみ) 聞こし食(お)す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきままに 然(しか)にはあらじか

これが「序」に続いて、惑へる心を変えさせるために送った歌です。
こういう長歌はどこに「切れ」があるのかをはっきりさせないとなかなか正確に意味をとるのが難しいです。

井上先生によれば、この歌は問答の形をとっていると指摘されていました。
憶良で「問答」と言えば誰もが「貧窮問答歌」を思い出します。ですから、この「問答」というスタイルこそが憶良が編み出した新しい表現の様式だったのではないかというのです。

ちなみに、「貧窮問答歌」は「ひんきゅうもんどうか」と読まれていたのですが、最近の研究では「びんぐもんどうか」というのが万葉時代の読みだといわれるようにっているそうです。

さて、この長歌を問答形式だとすると誰と誰の問答かと言うことになります。
ただし、それはこの長歌に先立つ「序」を読めば明らかです。
片方は「惑へる心」を持つ山沢に亡命する民であり、他方はその「惑へる心」をかえさせようとしている憶良と言うことになります。

万葉の花 キキョウ

そう考えると、まず最初は「山沢に亡命する民」の言い分です。

父母を 見れば尊し
妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し
世の中は かくぞ道理(ことわり)
もち鳥の かからはしもよ
行くへ知らねば

おそらくポイントは「もち鳥の かからはしもよ」でしょう。
「もち鳥」とは鳥もちにかかった鳥のことです。
ですから「もち鳥の かからはしもよ」とは、鳥もちにかかった鳥のようにそこから逃れたくてもがいてももがいてもどうしようもないという嘆きのような心情が込められた言葉です。

それでは、彼に絡みついた鳥もちとは何かと言えば、それはその前段の部分に示されています。

父母を 見れば尊し
妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し
世の中は かくぞ道理(ことわり)

父や母を見れば尊く思うし、妻や子を見れば可愛くも愛おしくも思う、それが世の中の道理だというのです。
ただし、そこには、そんな事はお前さんから言われなくてもオレにもちゃんと分かっているよというニュアンスが暗に含まれています。そして、そう言う道理こそが我が身に絡みついて身動きが取れないようにしている「鳥もち」の正体だと嘆いているのです。

万葉の花 ヒオウギ

私は正直言って驚いてしまいました。
万葉の歌なんてものは、今から見ればどこか浮世離れしたような古代人の心情が歌われているだけかと思っていました。
しかし、この「惑へる心」の率直な吐露の何と現代的なことか!!

そして、この心情が朝ドラ「半分青い」で、映画への夢を断ち切れずに離婚を切り出した涼次の心情にピッタリと重なることに驚いてしまうのです。

鈴愛から「死んでくれ」と返されたときに、この憶良の歌の前半部分をそのまま返せば、それは涼次の心情のもっとも深いところをあらわしたものになったことでしょう。
ですから、そう言う全ての屈折した思いが最後の「行くへ知らねば」が引き受けることになります。

おそらくこの言葉を現代語に訳してしまえば一番大切な部分がスルリと抜け落ちてしまうでしょう。
事の道理は分かりすぎるほどに分かっているけれども、それでもどうしようもない自分のこの心情をどうすればいいと言うだという嘆きや怒りのようなものが「行くへ知らねば」という言葉が見事に引き受けています。

父母を 見れば尊し
妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し
世の中は かくぞ道理(ことわり)
もち鳥の かからはしもよ
行くへ知らねば

つまり、憶良は「惑へる心」の持ち主に、その言い分を十分に吐露させた上で、反論を試みているのです。(続く)


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