万葉集を読む(25)~大伴旅人「日本琴(やまとこと)の歌」(1)

万葉文化館の「万葉集を読む」11月の講座は「万葉集巻5の810~812」の「日本琴の歌」でした。講師は吉原啓先生です。

この「日本琴の歌」は太宰府の長官であった大伴旅人が中央政界の大物であった藤原房前に「日本琴」を贈ったときの「添え状」と、それに対する藤原房前からの「礼状」とで成り立っています。

この「日本琴」の献上とそれに伴う手紙のやり取りが何を意味するのかと言うことに関しては、この直前に長屋王の変がおこっていることなども含めて様々に推測されてきたのですが、取りあえずはそう言う生臭い話は脇においておくとして、手紙の内容だけに絞って読み解いていきたいと思います。

まず最初に、旅人の送り状から読んでいきたいと思います。

大伴淡等謹(つつしみ)みて状(もう)す
梧桐の日本琴(やまとこと)一面 對馬の結石(ゆふし)山の孫枝(ひこえ)なり

此の琴、夢(いめ)に娘子(をとめ)に化(な)りて曰はく、

「余(われ)、根を遥嶋(えうたう)の崇(たか)き蠻(みね)に託(つ)け、韓(から)を九陽(くやう)の休(よ)き光に晞(ほ)す。
長く烟霞を帶びて山川の阿(くま)に逍遥し、遠く風波を望みて鴈木(がんぼく)の間に出入す。
唯(ただ)百年の後に、空しく溝壑(こうかく)に朽ちむことを恐るるのみ。
偶(たまため)良匠に遭ひて、散(けず)られて小琴と為る。
質の麁(あら)く音の少(とも)しきを顧みず、恒(つね)に君子(うまひと)の左琴(さきん)を希(ねが)ふ」

といへり。
即ち歌ひて曰はく、

如何(いか)にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)吾(わ)が枕(まくら)かむ

僕詩詠(われうた)に報(こた)へて曰はく

言問(ことと)はぬ樹(き)にはありともうるはしき君が手馴(たな)れの琴にしあるべし

琴の娘子(をとめ)答(こた)へて曰はく

「敬(つつし)みて徳音(とくいん)を奉(うけたま)はりぬ。幸甚(かうじん)幸甚」といへり。
片時(しまらく)にして覚(おどろ)き、すなはち夢(いめ)の言(こと)に感じ、慨然として止黙(もだ)をるを得ず。
故公使(かれおほやけづかひ)に附けて、聊(いささ)か進御(たてまつ)る。〔謹みて状(まを)す。不具〕

天平元年十月七日 使に附けて進上(たてまつ)る。
謹通 中衛高明閣下(ちうゑいかうめいかふか) 謹空

こういう講座に参加してつくづくと良かったと思うのは、当時の国政の中心にいたような高級官僚のやり取りというものが、どれほどの深い漢籍に対する知識を前提にして為されていたかを典拠まで示して解説してくれることです。
そのことによって、文法的な注釈をもとに言葉の意味を現代文に翻訳するだけでは見えてこない世界が見えてきます。

そして、そう言う漢籍の世界にまで踏み込んで読みを深めるというのは、素人が一人で取り組むには壁が高すぎるので、実に有り難い話なのです。

明日香の岡寺の石仏

まず、旅人の送り状は以下のような文言から始まります。

大伴淡等謹(つつしみ)みて状(もう)す
梧桐の日本琴(やまとこと)一面 對馬の結石(ゆふし)山の孫枝(ひこえ)なり

「大伴淡等」となっていますが、これは疑いもなく「大伴旅人」のことです。
どうやら万葉の時代の漢字というのは「音」が大事であって、その「意味」にはあまりこだわらなかったようです。ですから「たびと」と読めれば「淡等」でも「旅人」でもよかったようです。

ちなみに、吉原先生によれば、正倉院に収められた御物の一覧を示した「国家珍宝帳」にも「大伴淡等」から「聖武天皇」に献上した品物だという記述があるので、「大伴淡等=大伴旅人」で間違いないようです。

「大伴淡等謹みて状す」と言う書き出しは、改まった書簡文の決まり文句だったようです。
そして、最初に主用件をもってきます。

梧桐の日本琴一面 對馬の結石山の孫枝なり

「梧桐」とは「青桐」なのか「桐」なのかという論議があるそうです。
一般的に「あおぎり」と入力して変換すると「梧桐」になるので、「梧桐」は「青桐」だとされているのですが、「青桐」は切り倒した幹から出る枝、「孫枝(ひこえ)」は生じないので旅人の文章とは矛盾が生じるそうです。さらに、琴の材料としてはこの「孫枝」から作るものが最良とされているので、「梧桐」と「孫枝」がセットになると時は「梧桐」を「桐」と解釈してもいいというのが現代の定説だそうです。
細かい話ですが、その事によって旅人は房前に最高級の日本琴を贈ったことが分かりますから、意外と大切なポイントなのかもしれません。

明日香の岡寺の石仏

それから「日本琴」なのですが、これは朝鮮半島から伝わってきた大型の新羅琴などとは違って、膝の上に乗せて弾く六弦の小さな琴だそうです。
つまりは、この部分で「対馬の結石山の桐の孫枝で作った日本琴を一面贈ります」と言うことが書かれているのです。

そして、旅人はそれに続けて、房前に贈る日本琴の由来について筆を進めるのですが、これが漢籍に対する知識がないとその意味するところを正確に読み取るのは非常に困難なのです。

此の琴、夢(いめ)に娘子(をとめ)に化(な)りて曰はく、

「余(われ)、根を遥嶋(えうたう)の崇(たか)き蠻(みね)に託(つ)け、韓(から)を九陽(くやう)の休(よ)き光に晞(ほ)す。
長く烟霞を帶びて山川の阿(くま)に逍遥し、遠く風波を望みて鴈木(がんぼく)の間に出入す。
唯(ただ)百年の後に、空しく溝壑(こうかく)に朽ちむことを恐るるのみ。
偶(たまため)良匠に遭ひて、散(けず)られて小琴と為る。
質の麁(あら)く音の少(とも)しきを顧みず、恒(つね)に君子(うまひと)の左琴(さきん)を希(ねが)ふ」

といへり。
即ち歌ひて曰はく、

如何(いか)にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)吾(わ)が枕(まくら)かむ

「此の琴、夢(いめ)に娘子(をとめ)に化(な)りて曰はく」というのは琴が乙女の姿になって夢に現れたというのですから幻想的な場面設定なのですが、これは当時の中国の小説「遊仙窟」などにもある設定のようです。
しかし、問題はその後の文章であって、「根を遥嶋(えうたう)の崇(たか)き蠻(みね)に託(つ)け」とか「韓(から)を九陽(くやう)の休(よ)き光に晞(ほ)す」などと言うのは、何を言っているのか全く持って意味不明です。

そして、こんな意味不明の文章を送りつけられた房前さんは旅人が何を言いたかったのか理解できたのだろうかと心配になってきます。
でも大丈夫なんですね。

どうやらこれらの意味不明の文章も中国の「文選」に対する知識があれば、何を言っているのかはすぐに理解できたようなのです。
昔の貴族なんてのは毎日遊んで暮らしている脳天気な連中みたいなイメージがあるのですが、実は彼らの大部分はとんでもない教養人だったらしいのです。そして、そんな教養人の中で旅人と房前というのは飛び抜けた教養人であり、そのお互いの教養を信じて言葉のやり取りを行っているのです。

と言うことで、次回からは「文選」の「琴賦」という漢詩を軸として旅人の送り状を読み解いていきたいと思います。(続く)

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