万葉集を読む(27)~大伴旅人「日本琴(やまとこと)の歌」(3)

もう一度、乙女に姿をかえた日本琴が旅人の夢の中で語った言葉を確認しておきます。

「(1)余(われ)、根を遥嶋(えうたう)の崇(たか)き蠻(みね)に託(つ)け、(2)韓(から)を九陽(くやう)の休(よ)き光に晞(ほ)す
長く烟霞を帶びて山川の阿(くま)に逍遥し、遠く風波を望みて鴈木(がんぼく)の間に出入す。
(3)唯(ただ)百年の後に、空しく溝壑(こうかく)に朽ちむことを恐るるのみ
(4)偶(たまため)良匠に遭ひて、散(けず)られて小琴と為る
質の麁(あら)く音の少(とも)しきを顧みず、恒(つね)に君子(うまひと)の左琴(さきん)を希(ねが)ふ」

この言葉の背景には「琴賦」の中の表現が数多く引用されているのですが、2行目の「長く烟霞を帶びて山川の阿(くま)に逍遥し、遠く風波を望みて鴈木(がんぼく)の間に出入す。」に関しては、これに該当するような表現が「琴賦」には存在しません。

しかし、「琴賦」に該当する表現がないから漢籍に典拠がないと見るのは早計であって、当時の教養人というのはそんな一つの漢詩に寄りかかって文章を記すほど単純ではないのです。
吉原先生によると、前半部分の「山川の阿(くま)に逍遥し」は潘安仁の「秋興賦」という漢詩の中で使われている表現だそうです。

秋も終わりでしょうか

この「秋興賦」の結びの処に次のような一節があります。

逍遙乎山川之阿、放曠乎人間之世。優哉游哉、聊以卒歳
山川の阿(くま)に逍遥し、人間(じんかん)の世に放曠(ほうてき)す。優(いう)たるかな游(いう)たるかな、聊(いささか)以て歳(とし)を卒(お)へん。

「山川の隅から隅までを気ままに歩き、この人の世を自由に生きよう。のんびりゆったりと、寿命の尽きるまで」みたいな意味であって、ここでの「山川の阿(くま)に逍遥し」には俗世からは距離をとって生きていこうという意味が含まれます。
この「俗世から距離を取って生きていく」というニュアンスはこの後にも異なった表現で出てくるのですが、それはこの手紙のやり取りの前に「長屋王の変」があったことを考えると意味深なモノを感じます。

それから、これに続く「遠く風波を望みて鴈木(がんぼく)の間に出入す。」はさらに意味を理解するのが難しい一節です。
Googleで「鴈木」と検索しても、将棋の「雁木戦法」ばかりがソロゾロ出てきますし、それ以外では雪国の「雁木」が顔を出すくらいです。

実は此の「鴈木(がんぼく)の間に出入す。」は「荘子」の「山木編」の中に出てくる説話を典拠としています。
少し長くなるのですが、面白い説話ですから引用しておきます。

莊子、山中に行き、大木の枝葉(しよう)盛茂(せいも)するを見る。
木を伐る者、其の旁(かたわら)に止まりて取らざるなり。
其の故を問ふに、曰く、用ふべき所無しと。
莊子曰く、此の木、不材を以て得の天年を終ふるを其たり。
夫子、山より出でて,故人之家に舎(やど)る。故人喜び、豎子(じゅし)に命じて雁(がん)を殺して之を烹しむ。
豎子請ひて曰く、其の一は能(よ)く鳴き、其の一は鳴くこと能(あた)はず。請ふ奚(いずれ)を殺さん、と。
主人曰く、鳴くこと能(あた)はざる者を殺せ、と。

明日(みょうじつ)、弟子(ていし)莊子に問ひて曰く、昨日、山中之木は、不材を以て其の天年を終ふるを得、今、主人之雁は、不材を以て死す。
先生將に何(いず)れに處(よ)らんとする、と。

これに対する荘子の答えは、ならば私はその間を行こうというものでした。
つまりは役に立つとも立たぬとも判然としない中間の道を進もうというのです。

荘子

旅人がここで「鴈木(がんぼく)の間に出入す」と記したのは、その様な荘子の一節を踏まえて、「役に立つとも役に立たぬともなく過ごしてきた」ということを言っているわけです。

そうなると、この前段の「山川の阿(くま)に逍遥し」では俗世からの距離を取った行き方を暗示し、後段の「鴈木(がんぼく)の間に出入す」では毒にも薬にもならない己の立場を強調しているように読めます。
この辺りは「長屋王の変」によって中央政界での権力構造が大きく変化していく中で、大伴氏という名門貴族の長としての思惑が反映していることは十分に考えられると思います。

そうして、そう言う極めて遠回しな表現による大伴氏の立ち位置の表明を、藤原房前ほどの教養人ならば誤りなく読み取ってくれるだろうという信頼感もあったはずです。

そして、最後の「質の麁(あら)く音の少(とも)しきを顧みず、恒(つね)に君子(うまひと)の左琴(さきん)を希(ねが)ふ」も何気ない一節なのですが、ここにも漢籍が典拠としてどっかりと腰を下ろしています。
それが「左琴」です。

「古列女伝」巻二の「賢明伝」にでてくる表現だそうです。
これ以上原文を引用するのは煩わしいでしょうから、ポイントだけを紹介しておきます。

才能がありながら麻の履物を織ってひっそりと暮らしていた於陵(おりょう)のもとに、楚王がその才能を聞きつけて宰相に招きたいと使者をよこします。
於陵は私にも妻がいるので相談してから返事をしたいと伝えます。

妻は於陵に対して

あなたは麻の履物を織って暮らしを立てているのですから人として為すべき事はやっています。
おまけに左には琴、右には書物を置いて悠然と暮らしているのですから、楽しみは全てその中にあるはずです

と答えるのです。
それを聞いた於陵は使者に詫びを入れて宰相になることを断ったのでした。

この故事をもとに「左琴古書」という言葉が生まれて、これもまた俗世から距離を取って生きていくという意味合いを強く持った言葉なのです。

つまり、乙女と姿をかえた日本琴が語った言葉は、文選の「琴賦」をメインにして己の出自の確かさを誇り、それとあわせて「秋興賦」や荘子の「山木編」、さらには「賢明伝」などからの表現を使って俗世から距離を取った姿勢を暗示しているのです。
この旅人の「日本琴の歌」は、単に房前との文化人としての風流な交流と言うだけに止まらない意味を見いだす人が多いのですが、このような漢籍からの典拠を示されると、それも一理あるかと思わせられます。(続く)

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