万葉集を読む(30)~大伴旅人「日本琴(やまとこと)の歌」(6)

大伴旅人と藤原房前の間で交わされた書簡について、その背景があれこれ取りざたされるのは、その直前に「長屋王の変」があったからです。
吉原先生からは以下の4つの説があることが紹介されました。

  1. 帰京転任運動
  2. 長屋王の変を契機とした大伴氏から藤原氏に対して為された降伏表明
  3. 藤原氏の中で微妙な立場にいた藤原房前への激励・慰撫
  4. 政争から距離を取る立場の表明

この中で「降伏表明」という見方に関しては吉原先生自身は明確に否定されていましたし、私もそれはないだろうと思われます。そして、この二人の書簡のやり取りは政争とは関係のない教養人としての「閑雅な書簡」と見るべきだろと語っておられました。そう言う意味では「政争から距離を取る立場の表明」に近いのかもしれません。
確かに、旅人の書簡には「山川の阿(くま)に逍遥し」とか「左琴」というような俗世から距離を取る生き方を表す言葉が使われています。「荘子」からの引用と思われる「鴈木(がんぼく)の間に出入す」という言葉もその様なスタンスを強く示唆しています。
しかしながら、「長屋王の変」という古代史における大事件が起こった8ヶ月後に、大伴旅人と藤原房前という国政の中枢にいた人物の間で取り交わされた書簡ですから、それが教養人としての閑雅なやり取りという意味しかもたないと考えるのには、いささか無理があるようにも思われます。
ですので、まずは議論の基礎になる「長屋王の変」とは何だったのかと言うことについて考えていきたいと思います。

皇位継承に絶対的な意味を持った母親の社会的地位

長屋王の父親は天武天皇の長男である「高市皇子」でした。後の感覚で言えば、天武天皇が亡くなれば長男である「高市皇子」が皇位を継承しそうなものなのですが、皇太子になったのは「草壁皇子」でした。何故ならば、当時の皇位継承は長幼の序ではなくて母親の地位が最も重要だったからです。
高市皇子の母親は福岡の豪族宗像氏の娘であるのに対して、草壁皇子の母親は皇后であった鸕野讚良(うののさらら)だったからです。鸕野讚良の父親は天智天皇ですから、母親が皇族であるというのが子供にとっては最強なのです。
そして、鸕野讚良は自分と同じように皇族の母親(太田皇女。ちなみに鸕野讚良の同母妹)を持つ大津皇子を危険な存在として消してしまうのです。
ところが、大津皇子を消したにもかかわらず、そのすぐ後に肝心の草壁皇子もなくなってしまいます。そこで、鸕野讚良は草壁皇子の子である軽皇子に皇位を継承するために自らが中継ぎとして天皇に即位して持統天皇となるのです。
これは非常に重要なことであって、当時は明確な皇位継承者がいないときは、皇后が中継ぎとして天皇に即位することは当然だとされていたのです。ですから、皇后は皇族であることが絶対条件であり、それ故に皇族を母に持つ皇子の地位は長幼の序を超えて重視されたのです。

二上山山頂にある大津皇子二上山墓

振り返ってみれば、皇位継承をめぐって非業の死を遂げたのは全て有力な皇位継承者でした。有馬皇子、大友皇子、大津皇子などなど、天智天武朝において悲劇的な最期を迎えたのは誰もが有力な皇位継承者でした。
それと比べると、高市皇子は天武天皇の長男という立場にいながらも、その様な皇位継承をめぐる危険な争いからは一歩退いた位置に身を置くことが出来ました。しかしながら、天武天皇の長子という立場には大きな権威があり、存命中は政権内において大きな力を持ったようで強力な経済的基盤を築き上げたことは間違いないようです。
しかしながら、その様に力を強めていっても、皇位継承争いからは外れているが故に危険な存在とは見なされていなかったのです。

長屋王はその様な立場にいた高市皇子の長男であり、おそらくは高市皇子が築き上げた経済的基盤をそっくり相続したことが分かってきました。
しかしながら、彼の母親は天智天皇の皇女である御名部皇女(みなべのひめみこ)でした。さらには妻が草壁皇子の次女である吉備内親王であり、二人の間には膳夫王(かしわでおう)を筆頭に多くの男子が生まれたのでした。次いでながらに言えば、妻の吉備内親王の姉は時の天皇だった元正天皇でした。
つまりは、皇位継承と言うことで言えば、高市皇子の時代には明らかに傍系の立場にいたのですが、それが長屋王から膳夫王へと代を重ねるにつれて再び本流へと戻ってきたのです。この事は長屋王の変の本質を考える上では非常に重要なポイントだと言えます。

それに対して、草壁皇子以降の皇位継承は様々な困難に見舞われます。すでに上でふれたように、草壁皇子が早く亡くなったので本命の軽皇子につなぐために母親の鸕野讚良が即位しました。そして、わずか14歳で軽皇子に皇位を継承させて文武天皇となるのですが、その文武天皇もまた20代でこの世をさってしまうのです。結果として、次期皇位継承の本命である首皇子(おびとのみこ)もまた再び未だ幼いという状態を招いてしまうのです。
そこで、再び幼い首皇子に皇位をつなぐために草壁皇子の后であった阿部皇女(あべのひめみこ)が即位し(元明天皇)、さらにはその娘である氷高皇女(ひだかのひめみこ)に譲位(元正天皇)するという形で時間稼ぎを行うのです。
そして、その様な時間稼ぎが必要だった背景には皇位継承の本命である首皇子の母親が藤原不比等の娘である藤原宮子だったという事情もあったようなのです。母親が地方豪族の娘だった高市皇子と較べればその地位は高いのですが、それでも母親が皇族ではないという事実には変わりはないのです。その事実は、例え宮子の父親が政権トップの不比等であっても変わることはないのです。
首皇子はその後即位して聖武天皇となるのですが、彼が生涯自分は天皇に相応しいのかと悩み続ける原因の一つはこの出自によるところが大きいのではないかと思われます。

二上山の山頂へ

この時間稼ぎの政権を支えたのが藤原不比等であり、その不比等が亡くなった後を託されたのが長屋王と不比等の次男だった藤原房前だったのです。
さらに言えば、元明天皇は亡くなる直前にこの二人を呼び出して首皇子の即位までを視野に入れて後事を託しているのです。つまりは、皇位継承の本命である首皇子の出自に問題があったとしても、それでも長屋王は危険なライバルとは目されていなかったのです。そして、その後10年にわたってこの二人は政権のトップとして活躍していくのであり、その政権を参議という立場で支えた一人が中納言に昇進していた大伴旅人だったのです。そして、その後に参議として政権の中枢に入り込んできたのが不比等の長男である武智麻呂だったのです。
こうして役者はそろい、そして首皇子もめでたく即位して聖武天皇となり、光明子との間に基王(もといおう)も生まれるのです。
この基王が無事に大きくなっていれ全ては平和なうちに事は進んでいったのでしょうが、何ということか、その基王は一歳の誕生日を待つこともなく亡くなってしまうのです。基王は生後32日にして皇太子に立てられていたのですから、その早すぎる死は聖武天皇と藤原氏に計り知れない衝撃を与えたのです。
何故ならば、基王の死は皇位継承者の空白を意味するのであり、その事は長屋王の長子である膳夫王の立場を一気に高めることに繋がったからです。随分と長くなりましたが、こうして長屋王の変に向けた舞台の幕は開いたのです。

長屋王の変の本質は皇位継承をめぐる権力闘争

基王の早すぎる死は、聖武天皇にとっても藤原氏にとっても、長屋王の一族が極めて危険なライバルとして浮上してくることを意味したのです。
一般的には、長屋王の変が起こったきっかけは、長屋王が光明子を皇后にすることに反対したためだと言われています。実は、光明子が基王を生んだときの地位は「夫人」でした。何故ならば、皇后になれるのは皇族だけであり、不比等の娘である光明子には皇后になる資格はなかったのです。ちなみに、先にふれたように、聖武天皇の母親も「夫人」であり、その出自に忸怩たるものがあった聖武は即位後に母親に「大夫人」という特別な称号を与えようとします。しかし、その時に反対したのが長屋王だったのです。
おそらく、長屋王には母親が地方豪族の娘だったために本流から外され続けた父親への思いがあったはずであり、それ故にその様な「特別扱い」は認められなかったのでしょう。ですから、非皇族の光明子が皇后に立てられるなどと言うことは、長屋王にしてみれば絶対に許せることではなかったのです。
しかしながら、聖武天皇と藤原氏にしてみれば、継承者という玉が手の中にない状態で万一聖武天皇が亡くなってしまえば、その権利が長屋王の長子である膳夫王に移る可能性は否定できないのです。何故ならば、長屋王の子供達は元明天皇の時代に「皇孫」という立場を正式に認められていたからです。聖武天皇の父親である軽皇子は「皇孫(天武天皇の孫)」と言う立場で文武天皇に即位したのですから、それを拒む理由をひねり出すのは不可能なのです。

紅葉の二上山

そこで、彼らがひねり出したウルトラCが光明子の立后だったのです。つまりは、光明子を皇后にしてしまえば、聖武天皇に万一のことがあったとしても彼女をつなぎとして即位させて時間稼ぎが出来るからです。しかしながら、明確な皇位継承者が不在の時につなぎとして皇后が即位するという習慣は皇后が皇族であるから可能な理屈であって、果たして光明子にその理屈が通用するかは疑問なのです。そして、その立后が疑問であるが故に長屋王が強く反対したのは当然の事だったのです。
しかしながら、長屋王がその事に反対すればするほどに、聖武天皇にとっても藤原氏にとっても膳夫王の存在が大きく浮かび上がってくるのです。

長屋王の変の首謀者は一般的には光明子の立后に反対された藤原氏の長である武智麻呂と三男の宇合だと言われてきました。しかし、最近の研究では聖武天皇もまた深く関わっていた可能性が指摘されています。
長屋王の変は実にあっけないものでした。
そして、それがいとも容易く実行されたように見えることと、その後の処理が極めて迅速に行われたことを見れば、この陰謀が入念に準備されたものだった事をうかがわせますし、聖武天皇の深い関与をもうかがわせるのです。例えば、長屋王の邸宅を囲んだ兵は藤原宇合が率いたのですが、その様な兵の動員は天皇の許可がなければ不可能なのです。

事の起こりは、729年2月10日に二人の人物が「長屋王は密かに左道を学び、国家を傾けようといている」と訴えたことでした。つまりは、皇位を自分たちの一族に奪い返すために基王を呪い殺したというのです。
そして、この訴えを受けてその日のうちに藤原宇合は軍を率いて鈴鹿、不和、愛発の三つの関を固め、さらに長屋王の邸宅を囲みます。この迅速な動きは聖武天皇の許可がなければ不可能です。
翌11日には二人の使者が長屋王のもとを訪れて罪を糾問し、12日には長屋王とその妻である吉備内親王、そして膳夫王を筆頭に4人の子供が自害させられ、家内のものは全て逮捕されます。
ところが、13日には逮捕された長屋王の家内のものは全て釈放されます。
さらには、17日には「交り通う」長屋王派として逮捕された90人近い人たちも、上毛野宿奈麻呂を筆頭とした7人だけが流罪とされただけで残りのメンバーは全て許されています。
さらには、26日には自害した4人以外の長屋王の子供達は一切の咎めがないだけでなく、今後も変わらずに禄が支給されることが決定されて事件の事後処理は全て終了するのです。

『聖武天皇像』(鎌倉時代、作者不詳)

こうしてみると、古代史における大事件であった長屋王の変なのですが、亡くなったのは皇位継承に関わる長屋王とその妻、そして4人の子供だけであり、後は7人が流罪になっただけなのです。つまりは、この事後処理を見れば、事件のターゲットは皇位継承のライバルとなる長屋王の4人の「皇孫」であり、その4人を抹殺する以上はその両親も生かしておくわけにはいかなかったという図が浮かび上がってくるのです。
さらに驚くのは、事件の数年後に最初に訴え出た一人が酒の席で「長屋王を誣告した」としゃべったので斬り殺されるという事件が起こるのです。そして、その後の「正史」の中では最初の訴えは全くの誣告であり、長屋王は無実であったことが記されるようになるのです。
それは残された資料だけしか見ることの出来ない後の世代のものであっても、それはあからさまなまでの皇位継承をめぐる暗闘であったことは明らかなのです。
ましてや、長屋王とともに政権の中枢にいた藤原房前や大伴旅人にしてみれば、その構図は眼前で演じられる猿芝居を見るような思いだったはずです。
その様な二人の間でこの日本琴の書簡が取り交わされたのは、同じ年の10月から11月にかけてでした。わずか8ヶ月後のことなのですが、すでに長屋王の変は過去の出来事となり、光明子は光明皇后となって滅ぼされた長屋王の邸宅に住まい、藤原氏の兄弟は全て政権中枢に参画するようになっていたのです。

問題はこの長屋王の変に藤原房前がどの程度関わっていたかと言うことです。残された資料を見る限りでは長屋王の変関連の資料には房前の名前はほとんど出てきませんし、事件の後も彼は一切昇進をしていません。また、他の三兄弟とも疎遠となったこともうかがわれますので、おそらくは深くは関与していなかったのではないかと考えられます。
もっとも、研究者によっては、彼は聖武天皇の側近という立場にいたので、事件の時には聖武天皇の身辺警護を行っていた可能性を指摘し、それ故に事件の当事者として関連資料に名前は出てこないだけで、事件そのものには他の兄弟と同様に深く関与していたと主張する人もいます。ただし、そう考えると、長屋王の変の後の政治的不遇が説明がつきません。
ですから、彼は自分の兄弟達が長屋王を抹殺するための陰謀を計画していることは知りながらも、その計画自体には深く関与しようとはしなかったと考えるのがもっとも妥当なラインではないかと思われます。
そして大伴旅人にしてみれば、彼は積極的な長屋王派ではなかったでしょうが、それでもともに佐保に居を構える優れた文人としての交流はあったでしょうし、少なくとも武智麻呂を筆頭とする藤原一族よりは親近感を抱いていたことは間違いなはずです。
その様に考えれば、都を遠く離れた太宰府から房前に宛てた書簡からは旅人の深い無常観のようなものも感じ取れるような気がするのです。
そして、その書簡のやり取りに積極的な政治的動機を見いだすのは深読みに過ぎるかもしれないのですが、それでもそのやり取りの背景には長屋王の変が色濃く影を落としていることは間違いないはずです。

それ故に、その影を感じながらこの二人のやり取りを読み込まなければ、其の書簡に込められた真意のようなものには到達できないのではないかと思われるのです。

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