万葉集を読む(31)~(山上憶良)「鎮懐石の歌」(1)

万葉文化館の12月の講座は巻五の813番~814番、神功皇后の「鎮懐石伝承」にまつわる作品です。講師は大谷歩先生でした。
この歌は前回の「日本琴の歌」のような二人の教養人による知的格闘技のようなものではないので、内容的には随分と分かりやすいものでした。ただし、その前提としての神功皇后の鎮懐石にまつわる伝承を知っていないと何の事やらさっぱり分からないという問題はあります。

取りあえず、作品を紹介しておきます。
なお、この作品には題詞が欠落していますし、誰の作品であるのかという記述もないので「詠み人知らず」と言うことになるのですが、多くの研究によって、ほぼ間違いなく山上憶良の作品であることが分かっているそうです。

筑前国怡土郡深江(いとのこほりふかえ)の村子負(こふ)の原に、海に臨める丘の上に、二つの石あり。大きなるは長さ一尺二寸六分、囲(めぐり)一尺八寸六分、重さ十八斤(こん)五両、少(すこ)しきは長さ一尺一寸、囲一尺八寸、重さ十六斤十両、並皆(とも)に楕円にして、状(かたち)は鶏子(とりのこ)の如し。その美好(うるは)しきは、論(あげつら)ふに勝(た)ふべからず。所謂(いはゆる)径尺の璧(たま)是なり。〔或(ある)は云はく、この二つの石は肥前国(ひのみちのくに)彼杵郡平敷(そのきのこほりひらしき)の石なり、占(うら)に当たりて取れりといふ〕 深江(ふかえ)の駅家(うまや)を去ること二十許里(さとばかり)にして、路の頭(ほとり)に近く在り。公私の往来に、馬より下りて跪拝(きはい)せずといふことなし。 古老相伝へて曰はく「往者(いにしへ)息長足日女命(おきながたらしひめのみこと)、新羅(しらぎ)の国を征討(ことむ)けたまひし時に、この両(ふた)つの石を用(も)ちて、御袖(みそで)の中に挿着(さしはさ)みて、鎮懐(しづめ)と為(し)たまひき。〔実(まこと)はこれ御裳(みも)の中なり〕所以(かれ)、行く人、この石を敬拝す」といへり。及(すなは)ち歌を作りて曰はく

長歌

懸(か)けまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ) 神の命(みこと) 韓国(からくに)を 向(む)け平(たひら)げて 御心(みこころ)を 鎮(しづ)め給ふと い取らして 斎(いは)ひ給ひし 真珠(またま)なす 二つの石を 世の人に 示し給ひて 万代(よろづよ)に 言ひ継(つ)ぐがねと 海(わた)の底 沖(おき)つ深江(ふかえ)の 海上(うなかみ)の 子負(こふ)の原に み手づから 置かし給ひて 神(かむ)ながら 神(かむ)さび坐(いま)す 奇魂(くしみたま) 今の現(をつつ)に 尊きろかむ

反歌

天地(あめつち)の共(とも)に久しく言ひ継(つ)げと此の奇魂敷(くしみたまし)かしけらしも

左注

右の事を伝へるは、那珂(なかの)郡の伊知(いち)の郷蓑島(さとみのしま)の人、建部(たけべ)牛麿なり。

神功皇后の鎮懐石伝承について

作品そのものの解釈に入る前に、どうしても神功皇后の伝承について確認しておく必要があります。
神功皇后伝承は古事記や日本書紀、さらには筑紫などの風土記などに記されていてます。それらの記述は細かい部分での異同は幾つかあるのですが、基本的には(1)神功皇后による新羅征伐と、(2)神宮・応神母子による大和入りの二つの部分に分かれます。ただし、万葉集が題材としているのは前半部分の「新羅征伐」における「鎮懐石」に関わる部分だけです。

月岡芳年筆の神功皇后伝承

神功皇后伝承は彼の夫である仲哀天皇が熊襲征伐のために九州に向かうところから始まります。この熊襲征伐に何故か皇后も同行することになるのですが、その皇后が突然神懸かりとなって西の国をうてと告げるのです。驚いた仲哀天皇は西には海しかないと言ってその言葉を信じなかったので、何と彼は神の怒りにふれて急死してしまうのです。
驚いた人々はさらに神の言葉をたずねると、神懸かった神功皇后は自分のお腹の中にいる子供がその西の国も治めることになると言い、それは天照大神の言葉だと告げるのです。そして、人々がお告げの通りに海神の祭儀を行うと海の魚たちは軍船を背負って進み、一気に新羅の国の半ばまで乗り上げるのです。そして、その勢いに恐れを抱いた新羅の王はたちまちに降伏をし、倭国に朝貢することを誓うのです。
ところが、戦後処理を行っている最中に神功皇后は出産しそうになったので、皇后は石を御裳の腰に巻いて出産を遅らせ、無事に九州に帰り着いてから後の応神天皇を出産したのです。
そして、その腰にまいた石を「鎮懐石」として筑紫の伊斗(いと)村においたのです。
これが前半部分に当たる「新羅征伐」に関わる伝承です。

そして、これに続けて、後半の母子による「大和入り」が語られるのですが、そこでは二人を妬んだ腹違いの二人の皇子が彼らを討ち取ろうとしたり、健内宿禰に連れられた応神天皇が各地をめぐった後に大和に帰還する経緯が語られるのが後半部分です。
言うまでもないことですが、神功皇后そのものは実在が疑われる人物ですし、彼女が行った「新羅征伐」は完全なフィクションです。しかし、そのフィクションの背景には当時の倭国と朝鮮半島をめぐる情勢が反映していることも否定できないようです。

歌川豊国筆の神功皇后

4世紀の朝鮮半島は百済と高句麗という統一政権が生まれ、それに少し遅れて新羅という新興勢力が台頭してきていました。そして、その新羅と百済に挟まれた弁韓と呼ばれる地方では未だ多くの小国に分裂している状態でした。倭国と呼ばれていた当時の日本はこの弁韓地方との結びつきが強く、とりわけ、そこで産出する鉄は欠くべからざる産物でした。
話がわき道にそれるのですが、最近の研究では、その鉄を効率的に入手するために多くの地方勢力が倭王のもとに結集して大和政権の基礎を築いたのではないかと言われています。
どういう事かというと、対外的な交渉を行うときは小国が小さな窓口を通してバラバラに対応するよりは、一本化を図って大きな窓口でまとめて交渉した方が有利だからです。そして、その有利さは現実の取引を通して多くの地方勢力も納得するものとなるので、それは同時に大きな窓口としての倭王の権威と権力を強めることにつながり、それが結果として大和政権の基礎を築く事につながったというのです。
ですから、4世紀の後半に入って新興勢力の新羅が力を強め、鉄の生産地である加羅を含む弁韓地方への侵攻を開始した事は大和政権にとっては看過することは出来なかったのです。
そこで、当時の大和政権が取った基本的な外交方針は百済と同盟関係を結んで新羅や高句麗と対抗するというものだったのです。もっとも、当時の朝鮮半島の情勢は複雑怪奇ですから、その外交方針はそれほどシンプルなものではなかったのですが、それでも百済と結んで新羅、高句麗と対抗するという大筋は変わらなかったようです。
そして、これが重要なことなのですが、その様にして朝鮮半島への軍事的プレゼンスを強めていったのは、神功皇后の子供と言うことになっている応神天皇以降の時代なのです。そして、その様な軍事的プレゼンスを強めざるをえなかった背景に、鉄製産地である加羅地方への新羅による侵攻があったのです。

神功皇后伝承はおそらくは古事記などが編纂されたときに創作されたものと思われます。そして、それは北部九州などに伝わる口碑や伝説などに基づくものではなくて全くのフィクションだという研究者もいます。
しかし、この万葉集に収められた歌を見る限りでは北部九州において何らかの伝承が言い伝えられていた可能性は否定できないので、おそらくは4世紀後半から強められていった朝鮮半島との軍事的な関わりの中で様々なことが北部九州の各地で語り継がれていて、それらも話の題材として活用しながら構成したと考えた方が自然なような気がします。

応神天皇陵とされる「誉田御廟山古墳 」

なお、これは万葉集の題材とは直接関係なのですが、新羅征伐に続いて語られる神功皇后と応神天皇による「大和入り」も何らかの歴史的事実を反映している可能性があります。それは、崇神天皇から応神天皇にいたる系譜がいささか不自然だからです。
神話的な出生が語られる応神天皇なのですがその実在は倭の五王との関係においてもほぼ確認されています。それに対して、応神天皇の父とされている仲哀天皇は間違いなくフィクションですし、母親である神功皇后も限りなくフィクションなのです。ところが、それ以前の崇神天皇からの垂仁、景行の三名はかなりの確度で実在していたことが推測されているのです。
つまりは、系譜的に言うと、実在したであろう崇神、垂仁、景行の後に、成務、仲哀という完全にフィクションの2名を挟んで、かなり実在の怪しい神功皇后の子供として応神につながるのです。

この不思議な系譜のつながりは昔から問題となっていたのですが、戦後になって天皇制の軛から解放されて主張されたのは、崇神天皇から始まる王朝が応神天皇によって打倒されて新しい王朝が始まったためではないかという水野学説でした。そして、その王朝の簒奪を正当化するために成務、仲哀という完全にフィクションの2名を挟むことで系譜をつなぐ必要があったというのです。
最新の研究ではどうなっているのかは分からないのですが、そう考えると、この神功皇后伝承の後半部分である母子による「大和入り」は急にリアリティを持つようになり、さらに言えば応神天皇の出生が神話の中にとけ込んでしまうことの意味も納得がいくのです。(続く)

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