「優秀録音」のそもそも論

この1年ほど「優秀録音」について、具体的な例をあげて考えてきました。
しかし、最近になって、「そもそもの問題」が抜け落ちていることに気づきました。

いわゆる「優秀録音」というのは、何を持って「優秀」と呼ぶのかという問題に関しては、それなりの前提を示したはずです。
大まかに言って、「楽器の質感」と「空間表現」の二つでしょう。

「楽器の質感」に関しては「リアリティ」と「クオリティ」に細分できるかもしれませんが、どうも境界線が今ひとつ不明瞭かもしれません。もう少し分かりやすく言えば、楽器の響きに生々しさ(リアリティ)があって、さらにはその楽器が持っている響きの美しさ(クオリティ)が十分に表現されていることです。
「空間表現」に関しては「音場の広がり」と「楽器のレイアウト(定位)」の二つに細分できるかもしれません。

そして、これらの条件を十分満たした上で、さらに十分なダイナミックレンジと見通しの良さが担保されていればかなり満足度は高いと思われます。
このあたりの指標は言ってみればオーディオ的な概念として幅広く共通認識されていることでしょう。

しかし、最近になって、そう言うオーディオ的な指標を持ち出す前の、そもそもの問題について明瞭にする必要があるのではないかという気がしてきたのです。
それは、そもそも録音するために鳴り響いている「現実の音」が好きなのかという問題です。

つまりは、私はそもそもどういう音が好きなのかという問題です。

薄めの響きは好きになれないニャン

そして、それは非常に重要な問題ではないかという気がしているのです。
すでに、あちこちで書いていることですが、私は低域を薄めに鳴らして合奏の精度を上げようとする「響き」は好きではありません。その手の響きをでもって演奏される音楽を「蒸留水」と言ってきたのですが、最近のオーケストラはほとんどがこの手の響きで演奏するようになってしまいました。

その流れを遡っていけば録音のフォーマットがアナログからデジタルに変わったことに行き当たるでしょう。
アナログ復権の流れの中で、「録音のスペックとしてアナログはデジタルよりも優れている」みたいな話が随分流布したのですが、昨年のハイエンド・オーディオショーではそう言う馬鹿げた話をする人ほとんどいなくなりました。

アナログからデジタルへのフォーマットの移行は演奏におけるどんな些細なミスも暴き出すようになりました。
その事によって、オーケストラ全体の合奏精度という点で足手まといになる低弦楽器への扱いが変化したのです。なぜならば、小回りのきかない低弦楽器を昔ながらに分厚く鳴らせば、それが足手まといとなってオーケストラ全体のアンサンブルに悪影響を及ぼすからです。
そして、薄めに鳴らすだけでは不十分だと思ったのか、伝統的に使用していたコントラバスのジャーマンボウをより小回りのきくフレンチボウに変更してしまった音楽監督もいました。

言うまでもないことですが、そう言う低弦楽器はオーケストラの響きを土台で支える楽器ですから、それを薄めに鳴らしたり、別のタイプの楽器に変更してしまえば、そのオーケストラが伝統的に持っていた響きは跡形もなく消えてしまいます。
その変更を強行した指揮者は「オンリー・ワン」よりは「ナンバー・ワン」を目指すと言い切っていました。
そして、その「ナンバー・ワン」が目指した先が「蒸留水」なわけです。

いや、いいんですよ、そう言う「蒸留水」のようなさらさらとした響きと、そう言う響きによるあっさりとした演奏が好きな人もいるのですから、それはそれで何も文句を言う筋合いはないのです。
ただし、それがどうにも我慢ならないものにとっては、そう言うオーケストラによる「優秀録音」というのは実に困った存在なのです。

何しろ「優秀録音」なのですから、「楽器の質感」と「空間表現」になんの問題もありません。
さらさらとした「蒸留水」のような響きは見事に(!)表現されていますし、それが広大な空間に広がるとともに、その空間内における楽器のレイアウトも申し分ありません。ダイナミックレンジも見通しの良さも申し分ないわけですから、オーディオ的には完璧です。

つまりは、どうにも我慢のならない響きによる、どうにも我慢のならない演奏が、完璧な優秀録音によって見事に表現されているのです。
これは考えてみればとんでもないパラドックスです。

そして、このパラドックスはオーディオは目的なのか手段なのかという問題に行き着きます。
オーディオがその人にとって目的であるならば、そこで鳴り響いている音のクオリティだけを問題にすればいいだけですから、そのオーディオによって鳴らされる音楽の「質」がどんなものであるかはほぼ無視できます。

マーラー:交響曲第3番ニ短調 ゲオルグ・ショルティ指揮 シカゴ交響楽団 1982年録音

例えば、ショルティとシカゴ交響楽団が録音したマーラーの3番の録音があります。
1982年に録音され、1983年にリリースされていますから音源を配布することは出来ませんが、実に見事な録音です。上で述べたような「優秀録音」のすべての指標において完璧だと思います。そして、完璧であるがゆえに、私のような再生システムではその「凄さ」は到底十分に再現することは出来ていません。

おそらく、この録音の凄さを十分に味わうためには、かなりのクオリティが再生システムに求められるはずです。
私のシステムではこの広大な音場空間は表現できませんからどこまで行っても箱庭的な域を出ませんし、何よりも冒頭部分からして強力な低域情報によって部屋が鳴ってしまいます。その意味では、これはリスニングルームまで含めた追い込みが必要な録音なのでしょう。

そして、こういう音源を相手にして、その再生に挑んでおられる方もいて、その志と執念には敬意を表さざるを得ません。
しかしながら、それが十全に再生できていないと言うことを棚に上げた上での話なのですが、それでも「音楽」としては楽しめない自分がいるのです。

その背景には、当然の事ながら「再生」しきれていないという問題はあります。それは認めながらも、それでも再生ステムの力不足だけではないという気もするのです。

実際、このコンビによるコンサートは一度だけ聴いたことがあります。その時に演奏されたバルトークの「管弦楽のための協奏曲」は実に見事なものでした。
それは「蒸留水」のような響きではなかったのですが、それでも低域を分厚く鳴らして、その上に響きを積み重ねていくような音でなかったことは事実です。そして、それは録音でしか分からないのですが、ライナー時代のシカゴ響の響きとはかなり異質だと感じました。

そして、ショルティという指揮者の評価がこの国で高まらなかった背景には、その様な響きへの違和感が拭いきれなかったからかもしれません。
つまりは、クラシック音楽を受容し支えている層の少なくない部分は、私と同じように「頭と嗜好」が古いのでしょう。

結局は、どれほど素晴らしいクオリティの録音であっても、そこで鳴り響いている音楽と響きが自分の好みでなければ、その優秀さが逆に「音楽を聞く」という行為の足を引っ張ってしまうのです。

その様に考えると、今の時代に一番不足しているのはレコードエンジニアではなくて、「音楽」に責任を持つレコードプロデューサーの方かもしれません。
特に、オーディオは目的ではなくて、あくまでも音楽を聞くための手段にしか過ぎないものにとっては、聞くに値する音楽を送り出すプロデューサーの能力こそが不足しているように思えるのです。

そう思えば、レッグやカルショーは偉かったと言わざるを得ないのかもしれません。

特に、レッグに関して言えば録音にかかわる技術的なことが全く分からない男だと散々悪口を書いてきたのですが、彼はEMIからリリースした録音は、音楽としては素晴らしいものがほとんどでした。
そして、彼がいなければ帝王カラヤンもいなかったでしょうから、カラヤンの業績への毀誉褒貶はあるとしても、その録音史において果たした役割は非常に大きかったと言わざるを得ません。

ということで、なんの役にも立たないことをだらだらと書いてきたのですが、今後は「優秀録音」を紹介するときは、その「音楽」のどの部分が好きなのかと言うことも書き添える必要があると感じた次第なのです。


2 comments for “「優秀録音」のそもそも論

  1. Yuo87
    2018年1月14日 at 2:53 PM

    私見ですが、その違和感の原因は「響き」に内在する「説得力」ではないかと思います。
    低域を豊かに鳴らすのは、「大指揮者の時代」に該当する人達は大体そうですし、ピリオドスタイル以外で薄目に鳴らす人はほとんど知りません。
    ですが、「大指揮者の時代」の人でも、薄目ではないものの低域をあまり強調しない人はいたと思います。
    私が真っ先に思い浮かぶのは、クレンペラーです。
    彼は、低域を強調せず、基本的に各声部バランスよく鳴らし、例外的に木管を強調するといったスタイルだったと記憶しています。フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ等に較べると、薄い響きがすることは確かです(硬いけど)。
    ただ、彼の紡ぎ出す音楽は、一音一休止に強い意志の力、或いは意味が感じられました。聴き手によっては近づきにくささえ感じるような、「かくあるべし」と思わせる説得力が。
    そういう指揮者は、今はいなくなったような気がします。響きとともにふわふわと軽い音楽を聴かせる人は多いと思いますが。

    オーディオ論とはズレてしまいましたが、ご容赦ください。

  2. yk
    2018年1月18日 at 5:53 PM

    オーディオを”目的”とすること自体は何の問題もありませんが、古い録音に愛着を持つ私は、音楽を聴くという行為の中ではオーディオが”手段”に過ぎないという立場を確認せずに目的として論じることには、殆ど意味を感じない人間です。
    そういう回顧型の思考形式を持つ老人の私ですが、最近長らくどうしても馴染めなかったラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンの交響曲新録音を”オッ!!”と言う感じで聴きました。その録音にDVDが付属していて、そのなかでベルリン・フィルはコントラバスなどの低域楽器を重要視していて、その上に音楽を作り上げている・・・・・といった発言があって印象的でありました(形を変えた先祖返り??)。
    音楽としての”優秀録音”は、周波数特性は如何に、再生機器は如何に、古いか新しいか、アナログかデジタルか、(或いはフルトウェングラーかラトルか・・・とか????)・・・と言った形式論的な分類だけで片付けられるべきものでもないと私は思っています。

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