クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 「ロマンティック」

フルトヴェングラー指揮 ウィーンフィル 1951年10月19日録音

  1. ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 「第1楽章」
  2. ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 「第2楽章」
  3. ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 「第3楽章」
  4. ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 「第4楽章」


わかりやすさがなにより・・・でしょうか

短調の作品ばかり書いてきたブルックナーがはじめて作曲した長調の作品がこの第4番です(変ホ長調)。この後、第5番(変ロ長調)、第6番(イ長調)、第7番(ホ長調)と長調の作品が続きます。

その中にあっても、この第4番は長調の作品らしい明るい響きと分かりやすい構成のためか、ブルックナー作品の中では早くから親しまれてきました。
「ロマンティック」という表題もそのような人気を後押ししてくれています。

この表題はブルックナー自身がつけたものでありません。弟子たちが作品の解説をブルックナーに求めたときに、ブルックナー自身が語ったことをもとに彼らがつけたものだと言われています。
世間にはこのような表題にむきになって反論する人がいるのですが、(曰く、絶対音楽である交響曲にこのような表題は有害無益、曰く、純粋な音楽の美を語るには無用の長物、などなど・・・)ユング君はけっこう楽しんでいます。それに、この作品の雰囲気に「ロマンティック」と言う表題はなかなか捨てたもんではありません。

それから、ブルックナーというと必ず版と稿に関わる問題がでてきます。この4番についても1874年に作曲されてから、81年に初演されるまでに数え切れないほどの改訂を繰り返しています。そういう詳細にこだわるブルックナーファンは多いのですが、ユング君にはその詳細をおってここに詳述する能力もやる気もありませんので、そういう情報が必要な人は別のサイトを当たってください。(メールで訪ねられても困ります・・・よろしく!)

無念さを抱き続けて


今さらフルトヴェングラーの古い録音を引っ張り出してくるのはどうかとも思ったのですが、いろいろな思いも交錯して取り上げてみることにしました。
いささか話が生臭くなることはお許しください。

ドイツだけに限った話ではなく、どの民族においても同様ですが、民族というものは全てにおいて偉大であったり、全てにおいて罪深かったりするわけではありません。おそらくは、その中に、この上もない偉大さと勇敢さが存在するかと思えば、その隣にどうしようもない偏狭さと残酷さが同居しているという有様です。
そして、フルトヴェングラーという人は、どれほど罪深い偏狭さと残酷さを見せつけられたとしても、それも含めた「ドイツ」というものを捨て去ることのできなかった人でした。
そして、この「ドイツ」という部分を「日本」という言葉に入れ替えて、そして8月15日という特別な日においてみれば、私の中に交錯している「思い」をある程度は理解していただけるかもしれません。

私は決して保守的な人間だとは思っていません。そして、過去になした行為の偏狭さと残酷さには真摯な認識と反省が必要だろうとは思っています。しかしながら、お家の事情で、時々思い出したように「お前は昔こんな悪いことをやったのから真剣に謝れ」などと言われ続けたら、やはり正直なところ「怒り」は感じます。
そして、その「怒り」の正体は何だろうと自問してみて思い当たるのは、一つの側面にしかすぎない「罪深さ」で民族の全てが塗り込められる事への「無念」さです。

おそらく、大戦後のフルトヴェングラーの胸の中にもそのような「無念」さが渦巻いていたのではないかと思います。
彼がナチスを毛嫌いしていたのは事実です。
しかし、いかに嫌っていようと、それもまたドイツの一部であることは認めざるを得なかったのがフルトヴェングラーという人でした。そうでなければ、彼もまた多くの知識人たちと同様にドイツを去っていたでしょう。
それは、どうしようもないほどの民族の恥部であっても、彼はそれも含めたあるがまの「ドイツ」を愛していたのです。つまりは、フルトヴェングラーという人は骨の髄まで「ドイツ人」だったのです。
それだけに、大戦後はその罪深さだけでドイツが塗り固められることにこの上もない無念さを感じていたのではないでしょうか。
そのようなライン上に彼のブルックナー演奏をおいてみると、そう言う風潮への必死の異議申し立てであったことに気づきます。いや、「異議申し立て」というのは正しくないかもしれません。それは、辱められ恥辱にふるえる「ドイツ」を必死の思いでかばい立てをしているようにすら聞こえます。

かわいそうなドイツ、そしてかわいそうな日本。
二つの世代を経て、そして経済的な発展を遂げて世界の大国となっても、その根底の構造は何も変わっていません。歴史は常に勝者によって書かれるものであり、敗者はいつまでその「無念」さを抱き続けなければならないのでしょうか。