クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調

フルトヴェングラー指揮 ベルリンフィル 1949年3月15日録音

  1. ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調 「第1楽章」
  2. ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調 「第2楽章」
  3. ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調 「第3楽章」
  4. ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調 「第4楽章」


おそらく、ブルックナーの最高傑作であり、・・・

交響曲というジャンルにおける一つの頂点をなす作品であることは間違いありません。
もっとも、第9番こそがブルックナーの最高傑作と主張する人も多いですし、少数ですが第5番こそがと言う人もいないわけではありません。しかし、9番の素晴らしさや、5番のフィナーレの圧倒的な迫力は認めつつも、トータルで考えればやはり8番こそがブルックナーを代表するにもっともふさわしい作品ではないでしょうか。

実際、ブルックナー自身もこの8番を自分の作品の中でもっとも美しいものだと述べています。

規模の大きなブルックナー作品の中でもとりわけ規模の大きな作品で、普通に演奏しても80分程度は要する作品です。
また、時間だけでなくオーケストラの楽器編成も巨大化しています。
木管楽器を3本にしたのはこれがはじめてですし、ホルンも8本に増強されています。ハープについても「できれば3台」と指定されています。
つまり、今までになく響きがゴージャスになっています。ともすれば、白黒のモノトーンな響きがブルックナーの特徴だっただけに、この拡張された響きは耳を引きつけます。

また、楽曲構成においても、死の予感が漂う第1楽章(ブルックナーは、第1楽章の最後近くにトランペットとホルンが死の予告を告げる、と語っています)の雰囲気が第2楽所へと引き継がれていきますが、それが第3楽章の宗教的ともいえる美しい音楽によって浄化され、最終楽章での輝かしいフィナーレで結ばれるという、実に分かりやすいものになっています。
もちろん、ブルックナー自身がそのようなプログラムを想定していたのかどうかは分かりませんが、聞き手にとってはそういう筋道は簡単に把握できる構成となっています。

とかく晦渋な作品が多いブルックナーの交響曲の中では4番や7番と並んで聞き易い作品だとはいえます。

無念さを抱き続けて


今さらフルトヴェングラーの古い録音を引っ張り出してくるのはどうかとも思ったのですが、いろいろな思いも交錯して取り上げてみることにしました。
いささか話が生臭くなることはお許しください。

ドイツだけに限った話ではなく、どの民族においても同様ですが、民族というものは全てにおいて偉大であったり、全てにおいて罪深かったりするわけではありません。おそらくは、その中に、この上もない偉大さと勇敢さが存在するかと思えば、その隣にどうしようもない偏狭さと残酷さが同居しているという有様です。
そして、フルトヴェングラーという人は、どれほど罪深い偏狭さと残酷さを見せつけられたとしても、それも含めた「ドイツ」というものを捨て去ることのできなかった人でした。
そして、この「ドイツ」という部分を「日本」という言葉に入れ替えて、そして8月15日という特別な日においてみれば、私の中に交錯している「思い」をある程度は理解していただけるかもしれません。

私は決して保守的な人間だとは思っていません。そして、過去になした行為の偏狭さと残酷さには真摯な認識と反省が必要だろうとは思っています。しかしながら、お家の事情で、時々思い出したように「お前は昔こんな悪いことをやったのから真剣に謝れ」などと言われ続けたら、やはり正直なところ「怒り」は感じます。
そして、その「怒り」の正体は何だろうと自問してみて思い当たるのは、一つの側面にしかすぎない「罪深さ」で民族の全てが塗り込められる事への「無念」さです。

おそらく、大戦後のフルトヴェングラーの胸の中にもそのような「無念」さが渦巻いていたのではないかと思います。
彼がナチスを毛嫌いしていたのは事実です。
しかし、いかに嫌っていようと、それもまたドイツの一部であることは認めざるを得なかったのがフルトヴェングラーという人でした。そうでなければ、彼もまた多くの知識人たちと同様にドイツを去っていたでしょう。
それは、どうしようもないほどの民族の恥部であっても、彼はそれも含めたあるがまの「ドイツ」を愛していたのです。つまりは、フルトヴェングラーという人は骨の髄まで「ドイツ人」だったのです。
それだけに、大戦後はその罪深さだけでドイツが塗り固められることにこの上もない無念さを感じていたのではないでしょうか。
そのようなライン上に彼のブルックナー演奏をおいてみると、そう言う風潮への必死の異議申し立てであったことに気づきます。いや、「異議申し立て」というのは正しくないかもしれません。それは、辱められ恥辱にふるえる「ドイツ」を必死の思いでかばい立てをしているようにすら聞こえます。

かわいそうなドイツ、そしてかわいそうな日本。
二つの世代を経て、そして経済的な発展を遂げて世界の大国となっても、その根底の構造は何も変わっていません。歴史は常に勝者によって書かれるものであり、敗者はいつまでその「無念」さを抱き続けなければならないのでしょうか。