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ベートーベン:交響曲第7番 イ長調, Op.92
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー:フルトヴェングラー指揮 ウィーン・フィル-ハーモニー管弦楽団1950年1月18日~19日録音
- Beethoven:Symphony No.7 in A major , Op.92 [1.Poco Sostenuto; Vivace]
- Beethoven:Symphony No.7 in A major , Op.92 [2.Allegretto]
- Beethoven:Symphony No.7 in A major , Op.92 [3.Presto; Assai Meno Presto; Presto]
- Beethoven:Symphony No.7 in A major , Op.92 [4.Allegro Con Brio]
深くて、高い後期の世界への入り口
「不滅の恋人」は「アマデウス」と比べるとそれほど話題にもなりませんでしたし、映画の出来そのものもいささか落ちると言わなければなりません。しかし、いくつか印象的な場面もあります。(ユング君が特に気に入ったのは、クロイツェル・ソナタの効果的な使い方です。ユング君はこの曲が余りよく分からなかったのですが、この映画を見てすっかりお気に入りの曲になりました。これだけでも、映画を見た値打ちがあるというものです。)それにしても、「アマデウス」でえがかれたモーツァルトもひどかったが、「不滅の恋人」でえがかれたベートーベンはそれに輪をかけたひどさでした。
第9で、「人類みな兄弟!!」と歌いあげた人間とは思えないほどに、「自分勝手」で「傲慢」、そしてどうしようもないほどの「エキセントリック」な人間としてえがかれていました。一部では、あまりにもひどすぎると言う声もあったようですが、ユング君は実像はもっとひどかったのではないかと思っています。
偉大な音楽家達というものは、その伝記を調べてみるとはっきり言って「人格破綻者」の集まりです。その人格破綻者の群の中でも、とびきりの破綻者がモーツァルトとベートーベンです。
最晩年のぼろ屑のような格好でお疾呼を垂れ流して地面にうずくまるベートーベンの姿は、そのような人格破綻者のなれの果てをえがいて見事なものでした。
不幸と幸せを足すとちょうど零になるのが人生だと言った人がいました。これを才能にあてはめると、何か偉大なものを生み出す人は、どこかで多くのものを犠牲にする必要があるのかもしれません。
この交響曲の第7番は、傑作の森と言われる実り豊かな中期の時期をくぐりぬけ、深刻なスランプに陥ったベートーベンが、その壁を突き破って、後期の重要な作品を生み出していく入り口にたたずむ作品です。
ここでは、単純きわまるリズム動機をもとに、かくも偉大なシンフォニーを構築するという離れ業を演じています。(この課題に対するもう一つの回答が第8交響曲です。)
特にこの第2楽章はその特徴のあるリズムの推進力によって、一つの楽章が生成発展してさまをまざまざと見せつけてくれます。
この楽章を「舞踏の祝祭」と呼んだのはワーグナーですが、やはり大したものです。
そしてベートーベンはこれ以後、凡人には伺うこともできないような「深くて」「高い」後期の世界へと分け入っていくことになります。
フルトヴェングラーのスタジオ録音を見直すときが来たようです。
フルトヴェングラーの演奏に関しては大戦中のライブ録音を評価するのが一般的でした。
しかし、戦後になされたスタジオ録音を素晴らしい音質で蘇らせてリリースする動きが最近になって目立ってきました。
とりわけ、52年以降のスタジオ録音に関してはEMIが正式にテープ録音を採用しているために、最近の録音と比べてもそれほどの落差を感じることなく音楽を楽しめるはずのものでした。それなりにきちんと作り込めば、それなりの音質で音楽を再現できるポテンシャルはある録音だったのです。
ユング君がこのことに初めて気づかされたのは、イタリアEMIが独自にマスタリングをほどこしてリリースしたベートーベンの交響曲全集を聞いたときでした。それは、今までに何度も再発を繰り返してきた同じEMIの音源とは思えないほどの素晴らしいものでした。
さらに、その後「THE 50’S」なるマイナーレーベルから出されたシューベルトの8番「ザ・グレイト」(50年スタジオ録音)を聞いたときは、開いた口がふさがりませんでした。いったいどういう種と仕掛けがあるのか分かりませんが、今まで何度も耳にしてきたEMIのものとは別物ののようなすぐれた音質でした。
最初は何か強力なノイズリダクションをかけているのかと思いましたが、聞き込んでみるとそう言う形跡は全くありません。おそらくは、よほど質の良い初期LP盤からの板おこしをしたのでしょう。
こうなると、テープ録音を正式に採用する以前の録音でさえも、やる気さえあればかなりの音質で蘇らせることも可能だと言うことが分かります。
そして、そう言う努力をEMIが全くやってこなかったのではないかという疑惑も浮かび上がってきます。
著作権という錦の御旗の上にあぐらをかいた殿様商売のゆえでしょうが、その錦の御旗が効力を失うことによって(隣接著作権の失効)、逆にフルトヴェングラーの芸術の本質が浮かび上がってくるようなすぐれたCDが市場に出回るようになったとするなら、何という皮肉、何というパラドックスでしょうか!!
つまり、EMIの様な粗雑な音質でスタジオ録音をリリースしていたのでは、音質の面でも大戦中のライブ録音に対してそれほどの優位を主張できず、その結果として、きちんとまとまったスタジオ録音よりは異様な緊張感に満ちた大戦中のライブ録音に軍配があがるのは当然のことだったのです。
しかし、うれしいことに、多くのマイナーレーベルからリリースされる最近のCDは、大戦中のライブ録音などとはハッキリと一線を画すほどに素晴らしい音質です。そうなると、細部の細部まで彫拓の限りを尽くしたスタジオ録音は、フルトヴェングラーというこの希代の天才がそれぞれの作品と作曲家をいかに理解していたかをハッキリと私たちに教えてくれるものとなっています。
とりわけ、52年の11月の下旬から12月の初旬にかけて集中的に録音されたベートーベンの交響曲は注目に値します。
52年11月24,25日:交響曲第6番「田園」
52年11月26,27日:交響曲第3番「エロイカ」
52年11月24,27,28日:交響曲第1番
52年12月1,2日:交響曲第4番
これだけ集中的に録音したのですから、それなりの準備と思い入れを持って取り組んだはずです。一般的にはそれほど評価の高くないスタジオ録音ですが、すぐれたCDで聞き直してみると全く別物のように聞こえるはずです。
そして、この50年に録音された7番もかつてのEMIでリリースされたCDとはハッキリと一線を画すほどに音質は改善されています。確かに、52年の一連の録音と比較すれば不満は残りますが、「キンキンとして掘りの浅い録音が残念!」といわれた面影はありません。
それ故に、フルトヴェングラーのベートーベンは既に何種類もアップしてはいるのですが、2004年を迎えて新たにパブリックドメインの仲間入りをはたしたこれらの音源をアップせざるをえないユング君なのです。(残念ながら1番に関しては初出が55年ですので、隣接著作権は失効していません。それ以外はすべて初出が53年です。)