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メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」序曲 作品21
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1947年9月28日録音
メンデルスゾーンの天才性が発露した作品
まず初めにどうでもいいことですが、この作品は長く「真夏の夜の夢」と訳されてきました。それは、シェークスピアの原題の「A Midsummer Night's Dream」の「Midsummer」を「真夏」と翻訳したためです。しかし、これは明らかに誤訳で、この戯曲における「Midsummer」とは、「midsummer day(夏至)」を指し示していることは明らかです。この日は「夏のクリスマス」とも呼ばれる聖ヨハネ祭が祝われる日であり、それは同時に、キリスト教が広くヨーロッパを覆うようになる以前の太陽神の時代の祭事が色濃く反映している行事です。ですから、この聖ヨハネ祭の前夜には妖精や魔女,死霊や生霊などが乱舞すると信じられていました。
シェークスピアの「A Midsummer Night's Dream」もこのような伝説を背景として成りたっている戯曲ですから、この「Midsummer」は明らかに「夏至」と解すべきです。
そのため、最近は「真夏の夜の夢」ではなくて、「夏の夜の夢」とされることが多くなってきました。
まあ、どうでもいいような話ですが・・・。
さらに、どうでもいいような話をもう一つすると、この作品は組曲「夏の夜の夢」として、序曲に続けて「スケルツォ」「間奏曲」「夜想曲」「結婚行進曲」が演奏されるのが一般的ですが、実はこの序曲と、それに続く4曲はもともとは別の作品です。
まず、序曲の方が先に作曲されました。これまた、元曲はピアノ連弾用の作品で、家族で演奏を楽しむために作曲されました。しかし、作品のできばえがあまりにもすばらしかったので、すぐにオーケストラ用に編曲され、今ではこの管弦楽用のバージョンが広く世間に流布しています。
これが、「夏の夜の夢序曲 ホ長調 作品21」です。
驚くべきは、この時メンデルスゾーンはわずか17歳だったことです。
天才と言えばモーツァルトが持ち出されますが、彼の子ども時代の作品はやはり子どものものです。たとえば、交響曲の分野で大きな飛躍を示したK183とK201を作曲したのは、彼もまた1773年の17歳の時なのです。
しかし、楽器の音色を効果的に用いる(クラリネットを使ったロバのいななきが特に有名)独創性と、それらを緊密に結びつけて妖精の世界を描き出していく完成度の高さは、17歳のモーツァルトを上回っているかもしれません。
ただ、モーツァルトはその後、とんでもなく遠いところまで歩いていってしまいましたが・・・。
ついで、この序曲を聴いたプロイセンの王様(ヴィルヘルム4世)が、「これはすばらしい!!序曲だけではもったいないから続くも書いてみよ!」と言うことになって、およそ20年後に「劇付随音楽 夏の夜の夢 作品61」が作曲されます。
このヴィルヘルム4世は中世的な王権にあこがれていた時代錯誤の王様だったようですが、これはバイエルンのルートヴィヒ2世も同じで、こういう時代錯誤的な金持ちでもいないと芸術は栄えないようです。(^^;
ただし、ヴィルヘルム4世の方は「狂王」と呼ばれるほどの「器の大きさ」はなかったので、音楽史に名をとどめるのはこれくらいで終わったようです。
作品61とナンバリングされた劇付随音楽は以下の12曲でできていました。
- スケルツォ
- 情景(メロドラマ)と妖精の行進
- 歌と合唱「舌先裂けたまだら蛇」(ソプラノ、メゾソプラノ独唱と女声合唱が加わる)
- 情景(メロドラマ)
- 間奏曲
- 情景(メロドラマ)
- 夜想曲
- 情景(メロドラマ)
- 結婚行進曲 - ハ長調、ロンド形式
- 情景(メロドラマ)と葬送行進曲
- ベルガマスク舞曲
- 情景(メロドラマ)と終曲(ソプラノ、メゾソプラノ独唱と女声合唱が加わる)
ただし、先にも述べたように、現在では作品21の序曲と、劇付随音楽から「スケルツォ」「間奏曲」「夜想曲」「結婚行進曲」の4曲がセレクトされて、組曲「夏の夜の夢」として演奏されることが一般的となっています。
妖精たちが飛びかう浮遊感を見事に表現している
メンデルスゾーンはナチス政権下において、最も過酷に抑圧され、最も不当な評価を押しつけられた作曲家でした。それ故に、フルトヴェングラーもナチスが政権を握るとメンデルスゾーンの作品はぱったりと取り上げなくなります。唯一の例外は1934年2月のベルリンフィルの定期演奏会において「夏の夜の夢」から「序曲・夜想曲・スケルツォ」の3曲を散り上げただけです。
このフルトヴェングラーの行為を一部では「ナチスへの抵抗姿勢のあらわれ」と見る向きもあるのですが、それほど深い意図はなかったという人もいてそれほど評価は定まってはいないようです。
ただし、当時のナチス系の新聞は全てこの定期演奏会に関する批評でメンデルスゾーンの作品については全くふれていないので、おそらくナチスはそう言うフルトヴェングラーの「意図」があったとしても完全に無視したことは間違いないようです。
そして、それ以後フルトヴェングラーは敗戦の年まで、メンデルスゾーンだけでなく全てのユダヤ系作曲家の作品を取り上げなくなります。
そんなフルトヴェングラーが、非ナチ化裁判で無罪となって再び奏活動に復帰した1947年に、早くもメンデルスゾーンの作品を取り上げています。そして、その演奏の素晴らしさに驚かされてしまいました。
この日のプログラムは「夏の夜の夢序曲」とベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリンはメニューヒン)」であり、世間では後者のベートーベンだけが注目されることが多いのですが、個人的にはこの「夏の夜の夢序曲」の方にこそ注目したいと思います。
ナチス政権下におけるメンデルスゾーンへの不当な評価は徹底したものでした。その背景には彼が大銀行家の御曹司であり、そんな劣等民族の金持ちのボンボンがまともな音楽が書けるはずがないという、言うにいえぬ嫉妬心もあったのでしょう。
そして、その評価は戦後になっても払拭されることはなく、一昔前までは日本の音楽大学の指導者でも、「口当たりのいい音楽は書いたが所詮は取るに足りない金持ちの凡の音楽」と言い放っていました。
しかしながら、1997年の没後150年を契機としてメンデルスゾーンの再評価が進められ、録音の数も増えて彼の全業績をふりかえることも可能になることで再び正当な評価が下されるようになってきました。それでも、未だナチスの下した不当な評価は完全に払拭されたとは言い難い状況は続いています。
しかし、この1947年にフルトヴェングラーが演奏した「夏の夜の夢」序曲に聞けば、彼にはその様な不当な評価には全く影響されていないことがはっきりと分かるどころか、メンデルスゾーンへのリスペクトすら感じ取れます。
妖精たちが飛びかう浮遊感を見事に表現したオーケストラの響きは古典派の時代にはなかった響きであり、彼が全く新しい時代を切り開きつつあったことを誰もが納得させられる演奏になっているからです。
そして、そう言う「軽さ」や「浮遊感」みたいなものを表現するのはフルトヴェングラーにとっては相性が悪いのではないかと思っていたのですが、ここではそれを見事に表現している事に驚かされました。
もちろん、部分的にはそこまでオケを重く鳴らす必要はないだろうと思う部分もあるのですが、それでも、朝陽とともに妖精たちが姿を消していくエンディングの表現の上手さを聞けば、フルトヴェングラーがメンデルスゾーンが音楽史において果たした役割の何たるかを完璧に理解していたことがよく分かります。(フルトヴェングラーに対して偉そうな言い方で申し訳ないです)
つまりは、この演奏こそは、ナチスがどれほどメンデルスゾーンを貶めようとも、その音楽的価値を十分すぎるほどにフルトヴェングラーが認めていたことの証しとなるのです。
そして、その事は、ともすれば彼がナチス政権下でユダヤ系作曲家の音楽を取り上げなくなったことを批判する人への、最も有効な答えとなっているのではないでしょうか。