クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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シューベルト:交響曲8(9)番 ハ長調 「ザ・グレイト」

トスカニーニ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1941年11月16日録音

  1. シューベルト 交響曲8(9)番 ハ長調 「ザ・グレイト」 「第1楽章」
  2. シューベルト 交響曲8(9)番 ハ長調 「ザ・グレイト」 「第2楽章」
  3. シューベルト 交響曲8(9)番 ハ長調 「ザ・グレイト」 「第3楽章」
  4. シューベルト 交響曲8(9)番 ハ長調 「ザ・グレイト」 「第4楽章」


この作品はある意味では「交響曲第1番」です。

天才というものは、普通の人々から抜きんでているから天才なのであって、それ故に「理解されない」という宿命がつきまといます。それがわずか30年足らずの人生しか許されなかったとなれば、時代がその天才に追いつく前に一生を終えてしまいます。

 シューベルトはわずか31年の人生にも関わらず多くの作品を残してくれましたが、それらの大部分は親しい友人達の間で演奏されるにとどまりました。彼の作品の主要な部分が声楽曲や室内楽曲で占められているのはそのためです。
 言ってみれば、プロの音楽家と言うよりはアマチュアのような存在で一生を終えた人です。もちろん彼はアマチュア的存在で良しとしていたわけではなく、常にプロの作曲家として自立することを目指していました。
 しかし世間に認められるには彼はあまりにも前を走りすぎていました。(もっとも同時代を生きたベートーベンは「シューベルトの裡には神聖な炎がある」と言ったそうですが、その認識が一般のものになるにはまだまだ時間が必要でした。)

 そんなシューベルトにウィーンの楽友協会が新作の演奏を行う用意があることをほのめかします。それは正式な依頼ではなかったようですが、シューベルトにとってはプロの音楽家としてのスタートをきる第1歩と感じたようです。彼は持てる力の全てをそそぎ込んで一曲のハ長調交響曲を楽友協会に提出しました。
 しかし、楽友協会はその規模の大きさに嫌気がさしたのか練習にかけることもなくこの作品を黙殺してしまいます。今のようにマーラーやブルックナーの交響曲が日常茶飯事のように演奏される時代から見れば、彼のハ長調交響曲はそんなに規模の大きな作品とは感じませんが、19世紀の初頭にあってはそれは標準サイズからはかなりはみ出た存在だったようです。
 やむなくシューベルトは16年前の作品でまだ一度も演奏されていないもう一つのハ長調交響曲(第6番)を提出します。こちらは当時のスタンダードな規模だったために楽友協会もこれを受け入れて演奏会で演奏されました。しかし、その時にはすでにシューベルがこの世を去ってからすでに一ヶ月の時がたってのことでした。

 この大ハ長調の交響曲はシューベルトにとっては輝かしいデビュー作品になるはずであり、その意味では彼にとっては第1番の交響曲になる予定でした。もちろんそれ以前にも多くの交響曲を作曲していますが、シューベルト自身はそれらを習作の域を出ないものと考えていたようです。
 その自信作が完全に黙殺されて幾ばくもなくこの世を去ったシューベルトこそは「理解されなかった天才の悲劇」の典型的存在だと言えます。しかし、天才と独りよがりの違いは、その様にしてこの世を去ったとしても必ず時間というフィルターが彼の作品をすくい取っていくところにあります。この交響曲もシューマンによって再発見され、メンデルスゾーンの手によって1839年3月21日に初演が行われ成功をおさめます。

 それにしても時代を先駆けた作品が一般の人々に受け入れられるためには、シューベルト〜シューマン〜メンデルスゾーンというリレーが必要だったわけです。これほど豪華なリレーでこの世に出た作品は他にはないでしょうから、それをもって不当な扱いへの報いとしたのかもしれません。

トスカニーニ意外では絶対に聴くことのできない素晴らしいシューベルト


トスカニーニとシューベルトというのはなんだか雰囲気的に相性が悪いような気がしていたのですが、聞いてみてびっくり、驚くほどに素晴らしい歌心にあふれた演奏ですっかり感心させられてしまいました。
しかしながら、調べてみると、トスカニーニが初めてコンサート指揮者として指揮台にあがったときのプログラムがシューベルトのハ長調シンフォニーでした。(1896年、ブラームスの悲劇的序曲にチャイコフスキーの組曲「胡桃わり人形」、そしてシューベルトのハ長調シンフォニーというプログラムだったようです)
この時代の指揮者というのは基本的にオペラを指揮するのがお仕事の基本で、そう言う実績を長年積み上げた上で功成り名を遂げた長老指揮者がようやくたどり着くのがコンサート指揮者だったそうです。ですから、わずか30歳にしてその地位にたどり着いたトスカニーニの実力と人気がうかがえるエピソードなのですが、その晴れ舞台のメインに選んだのがシューベルトだったのです。
ですから、トスカニーニにしてみれば、シューベルトは相性が悪そう!なんてのは実にもってけしからん話だったわけです。

とにかく、どれを聞いても、気っ風のいい演奏です。
フルトヴェングラーに代表されるような、イジイジうじうじした「悩める青春」の姿などはどこにもありません。ハ長調シンフォニーの第2楽章などは、フルトヴェングラー盤と比べてみれば、全く別の音楽に聞こえるほどのすっきり感にあふれています。
こういう演奏で聴いてみると、シューベルトって意外とやる気に満ちた明るい青年だったんだと思えてくるほどです。
ただし、凄いのは、そう言う直線的でメリハリのきいた造形でありながら、その中には実に清潔な歌心があふれていることです。まさに、ここには「カンタービレ」とはどういうものなのかがはっきりと刻印された演奏です。

まず、41年に録音されたフィラデルフィア管弦楽団との演奏ですが、トスカニーニが残した3種類の録音の中では最も雄大でしなやかな歌心にあふれています。
この頃、トスカニーニとNBC交響楽団との関係は悪化していて、それを埋め合わせるようにトスカニーニは頻繁にフィラデルフィア管弦楽団に客演していました。そして、とりわけこのシューベルトの演奏が素晴らしかったために、楽団からの要請もあってこの録音が行われたそうです。
ここでは、客演と言うこともあって、手兵のNBC交響楽団と比べれば手綱がいささか緩いように思えるのですが、それが結果としてはよい方向に働いたようです。ともすれば、彼の演奏につきまとう硬直した硬さが緩和されて、ある種の壮麗ささえ感じられる演奏に仕上がっています。録音に関しても、41年とは信じがたいほどの素晴らしさで、全盛期のトスカニーニの凄さがひしひしと伝わってくる演奏です。

それと比べると、47年に録音されたNBC交響楽団との演奏は、より引き締まった緊張感にあふれた造形です。これは、50年に録音された未完成シンフォニーにも共通した特徴ですが、非常に引き締まった、ある意味では厳しすぎると思えるほどの造形の中から、この上もなくクリアな歌が一本筋の通った背骨のように全編を貫いています。
そして、これと比べると、53年の最晩年の録音は、いささか緩んでいます。それでも、録音のクオリティを考えれば、一般的にはこれが代表盤となるのでしょうか。
まあ、ハ長調シンフォニーに関しては、個人的好みでは上のように一応はランク付けはできるのですが、基本的にはどれをとっても、トスカニーニ意外では絶対に聴くことのできない素晴らしいシューベルトを聴くことができます。