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シューベルト:交響曲第7(8)番 ロ短調 「未完成」
トスカニーニ指揮 NBC交響楽団 1950年3月12日&6月2日録音
わが恋の終わらざるがごとく・・・
この作品は1822年に作曲をされたと言われています。シューベルトは、自身も会員となっていたシュタインエルマルク音楽協会に前半の2楽章までの楽譜を提出しています。
協会は残りの2楽章を待って演奏会を行う予定だったようですが、ご存知のようにそれは果たされることなく、そのうちに前半の2楽章もいつの間にか忘れ去られる運命をたどりました。
この忘れ去られた2楽章が復活するのは、それから43年後の1965年で、ウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックによって歴史的な初演が行われました。
その当時から、この作品が何故に未完成のままで放置されたのか、様々な説が展開されてきました。
有名なのは映画「未完成交響楽」のキャッチコピー、「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」という、シューベルトの失恋に結びつける説です。
もちろんこれは全くの作り話ですが、こんな話を作り上げてみたくなるほどにロマンティックで謎に満ちた作品です。
前半の2楽章があまりにも素晴らしく、さすがのシューベルトも残りの2楽章を書き得なかった、と言うのが今日の一番有力な説のようです。しかし、シューベルトに匹敵する才能があって、それでこのように主張するなら分かるのですが、凡人がこんなことを勝手に言っていいのだろうか、と、ためらいを覚えてしまいます。
そこで、ユング君ですが、おそらく「興味」を失ったんだろうという、それこそ色気も素っ気もない説が意外と真実に近いのではないかと思っています。
この時期の交響曲は全て習作の域を出るものではありませんでした。
彼にとっての第1番の交響曲は、現在第8番と呼ばれる「ザ・グレイト」であったことは事実です。
その事を考えると、未完成と呼ばれるこの交響曲は、2楽章まで書いては見たものの、自分自身が考える交響曲のスタイルから言ってあまり上手くいったとは言えず、結果、続きを書いていく興味を失ったんだろうという説にはかなり納得がいきます。
ただ、本人が興味を失った作品でも、後世の人間にとってはかけがえのない宝物となるあたりがシューベルトの凄さではあります。
一般的には、本人は自信満々の作品であっても、そのほとんどが歴史の藻屑と消えていく過酷な現実と照らし合わせると、いつの時代も神は不公平なものだと再確認させてくれる事実ではあります。
トスカニーニならではの「オンリーワン」の魅力にあふれています。
なるほど、シューベルトという音楽はこんな風にも演奏できるものなんだ・・・!!というのが率直な感想です。もちろん、これと似たことはハ長調シンフォニーの3種類の録音を聞いても感じたのですが、トスカニーニ印の刻印はこの未完成と第5番の交響曲の方にしっかりと刻み込まれています。
例えば、第5番のシンフォニーにはロッシーニの影響が指摘されるのですが、トスカニーニの演奏で聴けば、その事が容易に聞き取ることができます。あふれかえるような覇気と推進力に満ちた演奏であり、実にもって見事なものです。
さらに、名盤ひしめく未完成交響曲の方は、そう言う数ある名盤の中でもおそらく最も厳しく緊張感に満ちた録音だと言えるでしょう。とりわけ、第1楽章の造形の厳しさは特筆もので、ここには「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」などというへたれたキャッチフレーズが入り込む余地など微塵もありません。
ただし、それと比べると第2楽章の方は意外なほどにおとなしいのでいささか肩すかしを食らわされます。しかし、その事を割り引いても、この録音にはトスカニーニならではの「オンリーワン」の魅力にあふれています。
トスカニーニは1867年に生まれていますから、未完成の方を録音したときは83歳、第5シンフォニーの方は86歳の時の録音です。
確かに、指揮者という稼業は年をとってもやっていける仕事なのですが、その大部分は年相応にヘタレテいくものです。そして、そのへたれた演奏を「悠揚迫らぬ巨匠の芸」などと無理にもてはやして「生存期間」を長引かせたりするんですが、トスカニーニにはそんな気遣いは一切無用だったようです。
昨今の「楽譜に忠実な演奏」というお題目だけを唱えて、薬にも毒にならないような演奏だけでこの稼業をしのいでいる指揮者は、たまにはトスカニーニの爪の垢でも煎じて飲んでほしいものです。
あらためて・・・トスカニーニって凄かった!と思います。