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シューベルト:交響曲第5番 変ロ長調 D485
トスカニーニ指揮 NBC交響楽団 1953年3月17日録音
- シューベルト 交響曲第5番 変ロ長調 D485 「第1楽章」
- シューベルト 交響曲第5番 変ロ長調 D485 「第2楽章」
- シューベルト 交響曲第5番 変ロ長調 D485 「第3楽章」
- シューベルト 交響曲第5番 変ロ長調 D485 「第4楽章」
過渡期の作品
シューベルトの初期作品は交響曲という形式であっても身近な演奏団体を前提として作曲された作品です。この身近な演奏団体というのは、シューベルト家の弦楽四重奏の練習から発展していった素人楽団であろうといわれています。しかし、対のように作曲されたこの4番と5番の交響曲は、その様な身内のための作品でありながら、次第にプロの作曲家として自立していこうとするシューベルトの意気込みのようなものも感じ取れる作品になってきています。とりわけ、この第5番の交響曲では、以前のものと比べるとよりシンプルでまとまりのよい作品になっていることに気づかされます。もちろん、形式が交響曲であっても、それはベートーベンの業績を引き継ぐような作品でないことは明らかですが、それでも次第次第に作曲家としての腕を上げつつあることをはっきりと感じ取れる作品となっています。
この作品を完成させた頃に、シューベルトはイヤでイヤで仕方なかった教員生活に見切りをつけて、プロの作曲家を目指してのフリーター生活に(もう少しエレガントに表現すれば「ボヘミアン生活」に)突入していきます。
そして、これに続く第6番の交響曲は、シューベルト自身が「大交響曲 ハ長調」のタイトルを付け、私的な素人楽団による演奏だけでなく公開の場での演奏も行われたと言うことから、プロの作曲家をめざすシューベルトの意気込みが伝わってくる作品となっています。また。この交響曲は当時のウィーンを席巻したロッシーニの影響を自分なりに吸収して創作されたという意味でも、さらなる技量の高まりを感じさせる作品となっています。
その意味では、対のように作曲された4番と5番のの交響曲、さらにはプー太郎になって夢を本格的に追いかけ始めた頃に作曲された第6番の交響曲は、シューベルトにとっては様々な意味において「過渡期」の作品だったといえます。
トスカニーニならではの「オンリーワン」の魅力にあふれています。
なるほど、シューベルトという音楽はこんな風にも演奏できるものなんだ・・・!!というのが率直な感想です。もちろん、これと似たことはハ長調シンフォニーの3種類の録音を聞いても感じたのですが、トスカニーニ印の刻印はこの未完成と第5番の交響曲の方にしっかりと刻み込まれています。
例えば、第5番のシンフォニーにはロッシーニの影響が指摘されるのですが、トスカニーニの演奏で聴けば、その事が容易に聞き取ることができます。あふれかえるような覇気と推進力に満ちた演奏であり、実にもって見事なものです。
さらに、名盤ひしめく未完成交響曲の方は、そう言う数ある名盤の中でもおそらく最も厳しく緊張感に満ちた録音だと言えるでしょう。とりわけ、第1楽章の造形の厳しさは特筆もので、ここには「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」などというへたれたキャッチフレーズが入り込む余地など微塵もありません。
ただし、それと比べると第2楽章の方は意外なほどにおとなしいのでいささか肩すかしを食らわされます。しかし、その事を割り引いても、この録音にはトスカニーニならではの「オンリーワン」の魅力にあふれています。
トスカニーニは1867年に生まれていますから、未完成の方を録音したときは83歳、第5シンフォニーの方は86歳の時の録音です。
確かに、指揮者という稼業は年をとってもやっていける仕事なのですが、その大部分は年相応にヘタレテいくものです。そして、そのへたれた演奏を「悠揚迫らぬ巨匠の芸」などと無理にもてはやして「生存期間」を長引かせたりするんですが、トスカニーニにはそんな気遣いは一切無用だったようです。
昨今の「楽譜に忠実な演奏」というお題目だけを唱えて、薬にも毒にならないような演奏だけでこの稼業をしのいでいる指揮者は、たまにはトスカニーニの爪の垢でも煎じて飲んでほしいものです。
あらためて・・・トスカニーニって凄かった!と思います。