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ベートーベン:交響曲第6番「田園」
トスカニーニ指揮 NBC交響楽団 1952年1月14日録音
- ベートーベン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」 「第1楽章」
- ベートーベン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」 「第2楽章」
- ベートーベン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」 「第3~5楽章」
標題付きの交響曲
よく知られているように、この作品にはベートーベン自身による標題がつけられています。第1楽章:「田園に到着したときの朗らかな感情の目覚め」
第2楽章:「小川のほとりの情景」
第3楽章:「農民の楽しい集い」
第4楽章:「雷雨、雨」
第5楽章:「牧人の歌、嵐のあとの喜ばしい感謝の感情」
また、第3楽章以降は切れ目なしに演奏されるのも今までない趣向です。
これらの特徴は、このあとのロマン派の時代に引き継がれ大きな影響を与えることになります。
しかし、世間にはベートーベンの音楽をこのような標題で理解するのが我慢できない人が多くて、「そのような標題にとらわれることなく純粋に絶対的な音楽として理解するべきだ!」と宣っています。
このような人は何の論証も抜きに標題音楽は絶対音楽に劣る存在と思っているらしくて、偉大にして神聖なるベートーベンの音楽がレベルの低い「標題音楽」として理解されることが我慢できないようです。ご苦労さんな事です。
しかし、そういう頭でっかちな聴き方をしない普通の聞き手なら、ベートーベンが与えた標題が音楽の雰囲気を実にうまく表現していることに気づくはずです。
前作の5番で人間の内面的世界の劇的な葛藤を描いたベートーベンは、自然という外的世界を描いても一流であったと言うことです。同時期に全く正反対と思えるような作品を創作したのがベートーベンの特長であることはよく知られていますが、ここでもその特徴が発揮されたと言うことでしょう。
またあまり知られていないことですが、残されたスケッチから最終楽章に合唱を導入しようとしたことが指摘されています。
もしそれが実現していたならば、第五の「運命」との対比はよりはっきりした物になったでしょうし、年末がくれば第九ばかり聞かされると言う「苦行(^^;」を味わうこともなかったでしょう。
ちょっと残念なことです。
さわやかで清々しい田園
ベートーベンの交響曲をトスカニーニで聞くとなると、30年代の古い録音で聞くべきか、それとも50年代の新しい方で聞くべきかが問題になります。
以前は、50年代の録音があまりにもキンキンとした彫りの浅い音質であったので、問題なく30年代の旧盤の方に軍配があがっていました。50年代の録音はその音質とも相まってテンポ設定も早めにとられていることもあって、どこかセカセカした印象がぬぐい去れませんでした。
しかし、最近になって新たにマスタリングされてリリースされるようになった新盤の方は画期的といえるほどに音質が改善されています。まるで音楽の遺骨を見るようだったのが、その上にしなやかな筋肉がまとわれるようになると、この新旧の聞き比べはなかなかに興味深いものとなってきました。
この6番では、その改善の効果がハッキリと出てるように思います。実に爽やかで清々しい田園風景を感じ取ることができます。
フルトヴェングラーの田園がゲルマンの森を思わせるとしたら、これはまるでイタリアはトスカーナ地方のような田園です。あのフルトヴェングラーの田園に重さと違和感を感じるひとにとっては最高の演奏となるでしょう。
旧盤と比べてみると、音楽づくりの方向性はまったく同一ですし、友に高い完成度を誇っています。そうなると、音質の面でメリットがあるだけにこの新盤の方をとりたくなる人が多いのではないでしょうか。