クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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ドビュッシー:「牧神の午後への前奏曲」

アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 NBC交響楽団 1953年2月13&14日録音

  1. Debussy:Prelude a l'apres-midi d'un faune


苦手なドビュッシーの中でこれだけは大好きでした。

ドビュッシーは苦手だ・・・、と言うことはあちこちで書いてきました。ピアニストが誰だったかは忘れましたが、オール・ドビュッシーのプログラムで、コンサートが始まると同時に爆睡してしまったことがあるほどです。あの茫漠としたつかまえどころのない音楽が私の体質には合わないと言うことなのでしょう。
しかし、そんな中で、なぜかこの「牧神の午後への前奏曲」だけは若い頃から大好きでした。
何とも言えない「カッタルーイ」雰囲気がぬるま湯に浸かっているような気分の良さを与えてくれるのです。言葉をかえれば、いつもはつかまえどころがないと感じるあの茫漠たる雰囲気が、この作品でははぐれ雲になって漂っているような心地よさとして体に染みこんでくるのです。
我ながら、実に不思議な話です。
何故だろう?と自分の心の中を探ってみて、ふと気づいたのは、響きは「茫漠」としていても、音楽全体の構成はそれなりに筋が通っているように聞こえることです。響きも茫漠、形式も茫漠ではつかまえどころがないのですが、この作品では茫漠たる響きで夢のような世界を語っているという「形式感」を感じ取れる事に気づかされました。
それは、この作品がロマン派の音楽から離陸する分岐点に位置していることが大きな理由なのでしょう。
牧神以前、以後とよく言われるように、この作品はロマン派に別れを告げて、20世紀の新しい音楽世界を切り開いた作品として位置づけられます。そして、それ故に冒頭のフルートの響きに代表されるような「革新性」に話が集中するのですが、逆から見れば、まだまだロマン派のしっぽが切れていないと言うことも言えます。そして、その切れていないしっぽの故に、ドビュッシーが苦手な人間にもこの作品を素直に受け入れられる素地になっているのかもしれません。それは、調性のある音楽に安心感を感じる古い人間にとっての「碇」みたいなものだったのかもしれません。

トスカニーニという男のチャレンジ精神を煽り立てるにはぴったりの音楽


トスカニーニの音楽の構築性を大切にする姿勢と、茫洋たる響きを特徴とするドビュッシーの音楽は一見すると相性があまりよくないように感じます。しかし、よく知られているように、トスカニーニはフランス音楽の中ではドビュッシーの音楽を最も数多く取り上げています。
とりわけ、「ラ・メール」は彼の十八番とも言うべき作品であり、若いころは新しい都市を訪れて公演を行うときは名刺がわりのようによく取り上げたという話が残っています。

しかし、それは考えてみればすぐに納得のいく話であって、ドビュッシーの音楽の特徴と言うべき茫洋たる響きは、いわゆる「雰囲気」によってもたらされるものではなく、それは今まで誰の耳もきくことの出来なかった音と音の重なりによって生み出されたものでした。それ故に、ドビュッシーが聞き取った新しい響きによって生み出された音楽は、その精緻きわまる音の重なりと、それらを使って生み出される綿密な構成を正確に再現しなければ本当の姿を見せないのです。
そして、その様な精緻なるものを追求することはトスカニーニという男のチャレンジ精神を煽り立てるにはぴったりの音楽だったのです。

その意味で、1950年に録音された「ラ・メール」はこの作品の一つのスタンダードとも言うべき演奏でしょう。そして、この録音からセル&クリーブランド管による「ラ・メール」を想起するのは容易なことです。
おそらく、セルこそはトスカニーニが求めたものをもっとも強く引き継いだ指揮者だったと言えるでしょう。
セルがその過酷なリハーサルで、オケのメンバーから「俺たちを豚扱いにする」とか「ミリタリー!!」等という批判を受けたときに、そういうセルの姿勢を率先して肯定して擁護したのはトスカニーニでした。

その意味では、彼らこそは「独裁者となることなく君臨した」モントゥータイプの指揮者の対極に位置する、そして今という時代には絶滅してしまった「君臨する独裁者」タイプの指揮者の典型でした。
ですから、私のようなセル・フリークにとっては、トスカニーニの「ラ・メール」はある意味では聞きなれた音楽です。もっとも、セルとは違う部分もあるのですが、それでも80歳を超えてもなお、これほどまでに精緻な響きを執拗に追求した男の執念には感嘆するしかありません。

ただし、セルはトスカニーニと同じように毎年のように「ラ・メール」を取り上げていましたが、それ以外のドビュッシー作品に対してはそれほど熱心ではありませんでした。もしかしたら、ほぼ皆無に近いような気もします。それに対して、トスカニーニはもう少し守備範囲が広かったようです。
それだけに、同じテイストで「牧神の午後への前奏曲」や「イベリア」を聞けるのは、私にとっては興味深かったです。
とりわけ、茫洋たる響きの代表とも言うべき「牧神の午後への前奏曲」ってのはこういう仕組みになっていたのか通せてもらっているような気がしました。
これが80代も半ばを過ぎた、引退1年前の録音とは信じがたいほどの完成度です。