クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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J.シュトラウスII世:「美しく青きドナウ」

アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 NBC交響楽団 1941年12月11日&1942年3月19日録音

  1. Johann Strauss :The Blue Danube, Op.314


社交の音楽から芸術作品へ

父は音楽家のヨハン・シュトラウスで、音楽家の厳しさを知る彼は、息子が音楽家になることを強く反対したことは有名なエピソードです。そして、そんなシュトラウスにこっそりと音楽の勉強が出来るように手助けをしたのが母のアンナだと言われています。後年、彼が作曲したアンネンポルカはそんな母に対する感謝と愛情の表れでした。
やがて、父も彼が音楽家となることを渋々認めるのですが、彼が1844年からは15人からなる自らの楽団を組織して好評を博するようになると父の楽団と競合するようになり再び不和となります。しかし、それも46年には和解し、さらに49年の父の死後は二つの楽団を合併させてヨーロッパ各地へ演奏活動を展開するようになる。
彼の膨大なワルツやポルカはその様な演奏活動の中で生み出されたものでした。そんな彼におくられた称号が「ワルツ王」です。
たんなる社交場の音楽にしかすぎなかったワルツを、素晴らしい表現力を兼ね備えた音楽へと成長させた功績は偉大なものがあります。

美しき青きドナウ 作品314


よく知られているように、この作品はプロイセンとの戦争に敗れて国民全体ががっくりと落ち込んでいるときに作られました。最初は合唱曲として発表されたのですが、それにつけられていた歌詞がとんでもなく酷いもので、それが足を引っ張ってそれほど評判とはならなかったと伝えられています。
ところが、そう言う「愛国的(?)」な歌詞などは放り出して、純粋に管弦楽曲として編曲して演奏すると、これが爆発的なヒットとなったのです。

この編曲の背景には、シュトラウスの妻がこの作品のメロディの素晴らしさに気づいて、演奏旅行に出かける夫の鞄にそっとしまい込んだという「美談」が残されています。何とも「クサイ」話ですが、今も昔もこの手の話が好きな人が多いという証拠にはなるでしょう。
しかし、結果は何であれ、今やこの音楽はオーストリアの第2国歌といわれるほどになっています。それ故に、ニューイヤーコンサートで、この作品だけはアンコール曲として必ず演奏されます。冒頭の音型をヴァイオリンが刻みはじめると一斉に拍手が巻き起こって演奏が中断され、指揮者とウィーン・フィルが新年の挨拶をするというのが「お約束」になっています。

真っ向から眉間を真っ二つにたたき割るような演奏


トスカニーニの「スケートをする人(スケーターズ・ワルツ)」を紹介したときに、「純音楽的表現」等という生易しいものではなくてそう言う上品さを突き抜ける「凄み」があると書きました。
それは「ライト・クラシック」等とよばれることのある作品であるにもかかわらず、真っ向から挑みかかるような指揮ぶりでした。あれは実にもって凄まじい「スケーターズ・ワルツ」でした。
「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」という言葉がありますが、こういう演奏を聞かされると、トスカニーニと言う人は己が取り上げる以上は、その音楽を絶対に「鶏」だとは思っていなかったことがよく分かります。

そして、トスカニーニという人はそう言う「小品」を結構たくさん録音しているにもかかわらず今までほとんど取り上げてこなかったことに気づきました。
考えてみれば、収録時間が5分程度のSP盤の時代にはそう言う小品がサイズ的には最適でした。
レーベルにしても一番の売れ筋だったでしょうから、巨匠と言われる指揮者であっても積極的に取り上げていたのです。しかし、長時間収録が出来る媒体に変わっていく中で、そう言う小品はメインの大作を収録した余白の埋め草のような存在になっていってしまいました。

当然の事ながら、埋め草に全力が投入されるはずもなく、次第に通り一遍のつまらぬ演奏しか生まれなくなっていったのです。

それに対して、かつての巨匠たちは実に個性豊かにそう言う小品を演奏したものだと感心させられます。
そして、雰囲気的にはそう言う小品には一番似つかわしくないようなトスカニーニが一番個性的な表現をしているように感じられるのが面白いところです。

ウェーバーの「舞踏への招待」やスッペの「詩人と農夫、ポンキエルリの「時の踊り」」等は、優雅さよりは真っ向からその眉間を真っ二つにたたき割るような演奏です。バッハの「G線上のアリア」や羞悪羅臼の「美しく青きドナウ」も強靭なまでのカンタービレが魅力的です。
ただし、「舞踏への招待」のように、録音的には強奏部分ではいささか音が潰れてしまっているものもあるので、そのあたりはいささか残念です。しかし、それもまたトスカニーニらしい迫力のあらわれで、録音スタッフが対応しきれないような凄みのあらわれだったのかもしれません。

人よってはトンでも演奏と言われるかもしれないのですが、それもまた楽しからずやです。