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R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」, Op.35(Richard Strauss:Don Quixote, Op.35)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 NBC交響楽団 (Cello)フランク・ミラー 1953年11月22日録音(Arturo Toscanini:NBC Symphony Orchestra (Cello)Frank Miller Recorded on November 22, 1953)
悲しげな姿の騎士、ドン・キホーテ」の「幻想的変奏曲」
この作品は言うまでもなく、セルバンテスの小説「ドン・キホーテ」を下敷きにしています。シュトラウスはこの作品のことを「大オーケストラのための、騎士的な性格のひとつの主題による幻想的変奏曲」と名付けています。この「騎士的な性格のひとつの主題」というのは「悲しげな姿の騎士、ドン・キホーテ」のことで、その「幻想的変奏曲」というのは、きわめて自由な形式による変奏によってドン・キホーテの数々の奇行を描いていこうという趣向を表明しています。
とりわけ、この作品で重要なポジションをしめるのが独奏チェロで、これが主人公である「ドン・キホーテ」の性格を表現していきます。
ちなみに、従者であるサンチョ・パンサは独奏ヴィオラで表現されることが多く、貴婦人は木管楽器によって表現されることが多いので、そのあたりは耳をすませて聞くとニヤリとできる場面が多いはずです。
なお、シュトラウスは楽譜の中に物語との関係を書き込んだりはしていないが、ある機会に次のように語ったと伝えられています。
- 序奏
ラ・マンチャの村に住む男が騎士のロマンスを読むうちに妄想にふけり、理性を失う中なかで、自分自身がが遍歴する騎士ドン・キホーテになろうと決心する。 - 主題
悲しげな姿の騎士、ドン・キホーテ(主題)が独奏チェロで、サンチョ・パンサの主題が独奏ヴィオラ表現される。 - 第1変奏
美しい貴婦人「ドゥルネシア」の合図で二人は出発し、風車を巨人と思い込んで戦いを挑む。しかし、たちまちのうちに風車が回り、地面に叩き付けられてしまう。風は弦楽器のトリルで表現される。 - 第2変奏
ドン・キホーテは羊の群れをアリファンファロン大王の軍隊と勘違いして戦闘を挑み、たちまちのうちに的を蹴散らして勝利する。羊は金管楽器のフラッター奏法で示される。 - 第3変奏
騎士と従者の対話。冒険が嫌になったサンチョの要求・質問・諌言、それに対してドン・キホーテのなだめ・慰め・約束が独奏チェロと独奏ヴィオラで展開される。 - 第4変奏
行進してくる懺悔者の一行とドン・キホーテの出会い。ドン・キホーテは懺悔者が携える聖像を誘拐された貴婦人だと思い込み、助け出そうとして一行に突入するが、叩き付けられて失神してしまう。 - 第5変奏
ドン・キホーテは戦争の見張りをしながら、遠く離れた架空の恋人ドルシネア姫へ胸の内を打ち明ける。 - 第6変奏
サンチョ・パンサは通りかかった不器量な田舎娘を主人にドルシネア姫だと思いこませる。しかい、娘は気味悪がって逃げてしまう。 - 第7変奏
女たちにからかわれ、だまされて目隠しをしたドン・キホーテとサンチョ・パンサは、乗せられた木馬を魔法の馬だと信じて空中を騎行し、巨人退治に夢中になる。 - 第8変奏
だまされた小舟での予想もしなかった航行、舟歌が歌われる。 - 第9変奏
二人の修行僧を悪魔と勘違いして闘いを挑む。驚いて修行僧たちは逃げるが、ドン・キホーテとサンチョ・パンサは意気揚々と旅を続ける。 - 第10変奏
光り輝いた月の騎士との決闘でドン・キホーテは大地の打ちのめされる。これによって、ドン・キホーテはついに冒険をあきらめ、羊飼いになる決心をして故郷に向かう。 - 終曲
ふたたび正気に戻ったドン・キホーテは最後の日々を瞑想の中で過ごし、静かに自分の生涯を回想する。そして、ドン・キホーテの死。
なお、セルバンテスの小説は、当初は「滑稽本」の傑作として評価されていたが、19世紀のロマン派の時代になると、見果てぬ夢を追い求める偉大でもの悲しい物語という悲劇的な解釈が主流を占めるようになります。しかし、20世紀になると、これを「カーニバル文学」の傑作として解釈する動きも見られます。
「カーニバル文学」とは、
「文学におけるカーニバル性とは、国王の戴冠と奪冠、地位や役割の交代や変装、両義性、シニカルで無遠慮な言葉、などに見られるものである。価値倒錯の世界を創り出す効果を持つ。また、中世によく見られた笑いを隠れ蓑にしたパロディーにも、強いカーニバル性が見られる。中世においても笑いによってならば、聖なるものを俗的に扱うことが許されたのである。聖と俗の交わりや交代、否定(嘲笑)と肯定(歓喜)、死と再生、などが笑いの中で行われた。笑いは社会風刺のために、無くてはならない要素であった。カーニバル文学においても、笑いは極めて重要な要素である。」
と言うものらしいです。
シュトラウスの作品は、19世紀的な悲劇的解釈を下敷きにしたというよりは、明らかにこの物語が持つ「カーニバル性」を前面に押し出した作品のように思えます。
しかし、演奏する側にとってはどうにでも料理できる懐の広さを持つ作品でもあるので、そのあたりの解釈をどうするかは結構難しい問題となるように思われます。
リヒャルト.シュトラウの作品は取り上げていたんだ
ふと気づいてみれば、トスカニーニがリヒャルト.シュトラウスの作品を録音しているではないですか。
最初は「ふーん」というくらいだったのですが、聞いてみればこれが実に素晴らしい演奏なので驚いてしまいました。とりわけ、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」なんかはキレキレの演奏です。「ドンファン」にはそこまでの凄みは感じないのですが、音楽が進むにつれて次第に気合いが入ってくる様子がはっきりと窺えます。
50年代初めの頃の録音ですから、おそらくは一発録りでしょう。さらに言えば、録音してから編集でオケのバランスを修正するなどということは不可能ですから、まさにこの録音で聞くことのできる音が録音現場でも鳴り響いていたということです。この切れ味の鋭さは、NBC交響楽団のただならぬ能力の凄さを実感させてくれます。
さらに、「死と変容」はライブ録音のようなのですが、フィナーレ近くにはトスカニーニらしいうなり声のようなものが聞こえるような気がします。微妙なので断言は出来ませんが、まさにそう言ううなり声がでるであろうくらいに気迫のこもった演奏です。
さらに、面白いというか面妖というか、何とも言えず不思議なのが「ドン・キホーテ」です。
独奏のチェロはNBC交響楽団の首席チェロ奏者のフランク・ミラーがつとめています。ならば、全体の主導権はトスカニーニが握ると思いきや(いや、名のあるチェリストだってトスカニーニは主導権を渡さないでしょう)、なんと、トスカニーニはソリストを前面に押し出してまるでチェロ協奏曲のような雰囲気にしようとしてるのです。しかし、その信じがたい「好待遇?」にフランク・ミラーの方が驚いて戸惑っているかのような雰囲気が伝わってきて、思わず、「頑張れフランク・ミラー!」といいたくなるような演奏です。
それにして、「いかなる形であろうとナチスと関わったものは全てナチス」だと言い切っていたトスカニーニがシュトラウスの作品をこれほども取り上げていたとはいささか驚きでした。
さらに驚かされたのは、どの演奏においても、そこには疑いもなく作品へのリスペクトがあることでした。
「第3帝国で演奏活動を行ったものは全てナチスである」というのもトスカニーニの言葉だったような気がします。そうであるならば、1933年に政権をにぎったナチスに請われて1935年まで「第三帝国音楽局総裁」になったシュトラウスなどは到底容認できる存在ではないはずです。
しかし、これら一連のシュトラウス作品の録音を聞くときにその様な否定的な感情は一切感じられません。
確かに、シュトラウスが音楽局総裁に就任したのは近親にユダヤ系の嫁がいたためで、その身を守るためにナチスに迎合したともいわれています。さらに、ナチスが反ユダヤの姿勢を強めていく中でユダヤ系作曲家の作品を葬ろうとする姿勢が鮮明になると、彼は身の危険を感じながらも最終的にはナチスと対立して総裁を辞任しています。
しかし、トスカニーニはそういうあれこれの事情があったとしても、彼はナチスと関わりのあった人物に対しては常に厳しい態度を取り続けていました。そのもっとも典型的な例がフルトヴェングラーに対する態度でしょう。
トスカニーニはフルトヴェングラーが非ナチ化裁判で無罪判決を受けて復帰を遂げても、彼をナチスと断じて、許すことはありませんでした。
確かに、シュトラウスは非ナチ化裁判で最終的に無罪となったものの、最後まで公的な場には姿をあらわすことが出来ませんでした。そこはフルトヴェングラーとは大きく異なります。とは言え、この対応の違いにはいささか違和感を感じざるを得ません。
このあたりを勘ぐってみれば、トスカニーニの「第3帝国で演奏活動を行ったものは全てナチスである」という発言はフルトヴェングラーを意識した発言だったのかもしれません。つまりは、フルトヴェングラーを強力なライバルとしてその動きを牽制したかったのかもしれません。
または、芸術的な創造物は一度世に出れば、それは創作者の手もとを離れ、その創作者の人格なども含めたあらゆる事を離れて評価されるべきだと考えていたのかもしれません。
確かに、創作物と創作者の人格を関連づければ、クラシック音楽のかなりの部分は演奏不能となってしまいます。(^^;
クラシック音楽の作曲家とは、ある人によれば「人格破綻者の群れ」だそうです。これを暴言と切って捨てることが出来ないのも一つの事実です。
まあ、トスカニーニの意図が奈辺にあったのかは推測の域は出ませんが、それでも彼の最晩年に、こういう良好な録音状態で素晴らしいシュトラウス作品の演奏が残ったことには感謝するしかありません。