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シューベルト:交響曲第7(8)番 「未完成」
ブルーノ・ワルター指揮 ウィーンフィル 1936年録音
わが恋の終わらざるがごとく・・・
この作品は1822年に作曲をされたと言われています。シューベルトは、自身も会員となっていたシュタインエルマルク音楽協会に前半の2楽章までの楽譜を提出しています。
協会は残りの2楽章を待って演奏会を行う予定だったようですが、ご存知のようにそれは果たされることなく、そのうちに前半の2楽章もいつの間にか忘れ去られる運命をたどりました。
この忘れ去られた2楽章が復活するのは、それから43年後の1965年で、ウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックによって歴史的な初演が行われました。
その当時から、この作品が何故に未完成のままで放置されたのか、様々な説が展開されてきました。
有名なのは映画「未完成交響楽」のキャッチコピー、「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」という、シューベルトの失恋に結びつける説です。
もちろんこれは全くの作り話ですが、こんな話を作り上げてみたくなるほどにロマンティックで謎に満ちた作品です。
前半の2楽章があまりにも素晴らしく、さすがのシューベルトも残りの2楽章を書き得なかった、と言うのが今日の一番有力な説のようです。しかし、シューベルトに匹敵する才能があって、それでこのように主張するなら分かるのですが、凡人がこんなことを勝手に言っていいのだろうか、と、ためらいを覚えてしまいます。
そこで、ユング君ですが、おそらく「興味」を失ったんだろうという、それこそ色気も素っ気もない説が意外と真実に近いのではないかと思っています。
この時期の交響曲は全て習作の域を出るものではありませんでした。
彼にとっての第1番の交響曲は、現在第8番と呼ばれる「ザ・グレイト」であったことは事実です。
その事を考えると、未完成と呼ばれるこの交響曲は、2楽章まで書いては見たものの、自分自身が考える交響曲のスタイルから言ってあまり上手くいったとは言えず、結果、続きを書いていく興味を失ったんだろうという説にはかなり納得がいきます。
ただ、本人が興味を失った作品でも、後世の人間にとってはかけがえのない宝物となるあたりがシューベルトの凄さではあります。
一般的には、本人は自信満々の作品であっても、そのほとんどが歴史の藻屑と消えていく過酷な現実と照らし合わせると、いつの時代も神は不公平なものだと再確認させてくれる事実ではあります。
ワルターの未完成 〜 いわゆるウィーン風?
ウィーン風という言葉を安直に使うのはためらわれますが、この何とも言えず崩れた雰囲気は、思わずそういう言葉を使わせてしまう魅力を持っています。
アメリカに亡命をしてから、ニューヨークフィルとの演奏がたくさん録音されていますが、こういう雰囲気のある演奏は全く聴けませんから、当時のウィーンの社会とウィーンフィルの影響が前面にでた演奏なのかもしれません。
それから、これは全くの受け売りですが、シューベルトはアクセントを長めに書く癖があったそうです。そのため、後世の人はこのアクセントを何とディミヌエンドと解釈をして演奏してしまったというのです。アクセントとディミヌエンドでは、角を立てるところが全部丸め込まれてしまうんですから、音楽の雰囲気は全く別物になってしまいます。
ワルターは当時の常識に従って(?)、全てのアクセントをディミヌエンドとして演奏してます。それが何と言えない崩れた雰囲気を醸し出しだす要因となっているようです。
今日では、当然アクセントはアクセントとして演奏されますので(-_-;) 「おいおい」、ここで聞けるような未完成は滅びてしまいました。
そんなわけで、今日的常識に照らし合わせてみると、これは全くの勘違いの演奏です。
それでは全くつまらない演奏なのかと聞かれれば、これがいわゆる「正しい演奏」よりはずっと素晴らしい音楽になっているのが困りものです。(^^;
このあたりが音楽という営みの難しさ、面白さと言うしかありません。