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マーラー:交響曲第5番
ワルター指揮 ニューヨークフィル 1947年2月10日 録音
純粋な音楽形式が支配している
これはマーラーの使徒の筆頭格であるワルターの言葉です。「マーラーの最初の4つの交響曲には、意想、想像、感情が浸透しているが、第5から第7までの交響曲には純粋な音楽形式支配している」
確かに、外見的にも声楽が排除されていますし、楽曲の構造でも伝統的な4楽章形式に回帰しています。この第5番も5楽章にはなっていますが、よく言われるように第1楽章は序章的な扱いであり、第2楽章から第5楽章までが割合にきちんとした伝統的な構造を持っています。
第2楽章:ソナタ形式 嬰ハ短調
第3楽章:スケルツォ イ短調
第4楽章:アダージェット ヘ長調
第5楽章:ロンド・フィナーレ(ロンド形式のようでロンドでない・・・?) ニ長調
ただし、各楽章の調性を見ると、なんの統一性もないというか、希薄というか、そのあたりがやはりマーラー的であることは確かです。
「第5番 嬰ハ短調」と書いてみても、決して「嬰ハ短調」というのが作品全体のトーンを決める調性でないことは明らかですから、このような伝統的な書き方にはあまり意味がないといえます。それでも、前期の作品群と比べると、出来る限り強固な形式感を作品に与えることで、拡散するよりは凝縮的な表現を模索していることは事実です。
それから、どうでもいいことですが、この作品を仕上げる過程でアルマとの結婚を言う大きな出来事がありました。そして、新妻アルマはこの作品がお気に召さなかったというのは有名な話です。彼女にとって、新進気鋭の作曲家であるマーラーにとって、この作品はあまりにも伝統的なものとうつったようです。そんなエピソードからも、この作品の占めるポジションが透けて見えてくるようです。
また、マーラー作品の中で5番のアダージェットだけは有名でした。
ビスコンティの「ヴェニスで死す」で取り上げられたからです。
そんなわけで、マーラーの音楽など誰も聞いたことがないような時代でも、この第4楽章だけは有名でした。
70年代から80年代に入って日本でも頻繁にマーラーが取り上げられるようになるのですが、その頃に、コンサートで第5番をとりあげて第4楽章にくると、「見知らぬ町で突然昔なじみに出会ったような、変な居心地の悪さを感じる」といった人がいました。
ユング君がクラシック音楽を聴き始めたときはまさに「マーラーブーム」に突入していく頃でしたから、マーラーはベートーベンやブラームスと並ぶ定番メニューになりつつありました。ですから、そう言う感じは実感的には分かりにくいのですが、いかにマーラーの音楽が長きにわたって受け入れられなかったかという裏返しの表現だともいえます。
それから、ユング君がコンサートではじめてマーラーを聴いたのがこの第5番でした。
忘れもしない、大阪はフェスティバルホールでのテンシュテットの初来日公演でした。歴史的ともいえるあのコンサートがマーラーの初体験だったとは我ながら凄いと思います。
あの時はテンシュテットに心底感心して、おかげですっかり彼の追っかけになったのですが、おかげであれ以後どんなマーラー演奏を聞いても満足できなくなってしまうと言う「不幸」も背負い込みました。(^^;
当然の事ながら第4楽章にさしかかってもユング君の世代だとそう言う居心地の悪さを感じることもなく、それどころか、あの有名なアダージェットでは、テンションの高さを保ったままのピアニシモの凄さを初めて教えてもらいました。
あれ以後、そのようなピアニシモの凄さを感じたのは、バーンスタインとイスラエルフィルによるマーラーの第9番の最終楽章ぐらいでしょうか。
マーラーと言えばその表現の巨大さばかりが言われますが、本当の凄さはテンシュテットやバーンスタインが聞かせてくれたピアニシモの凄さにこそあるのかもしれないと思う今日この頃です。(^^)
4番ほどは上手くいっていないような気がします。
1945年に録音されたマーラーの4番に対してユング君は次のようにコメントしました。
「マーラーの音楽は直線で突っ切ればいいようなところを、ああでもない、こうでもないといってグジグジと曲線路をくねくねと進んでいくような音楽です。そして、そう言う曲がりくねったところにはまっすぐに突っ切ってしまわないようにしっかりと標識を立てては細々と指示が書き込んであります。
ところがここでのワルターはそういう細かい指示は一切無視して、迷うことなくまっすぐに突っ切っています。」
このコメントはこの5番についてもあてはまりそうです。しかし、出来上がったものは4番ほどには上手くいっていないような気がします。
それは、この作品が4番と比べればはるかに規模が大きくて、さらにスッキリとまとめ上げるにはだぶついている部分があまりにも多すぎるために、結果として中途半端なものになっているような気がします。
アプローチとしては同じやり方を採用しているように思えるセルが、4番と6番と9番しか残さなかったというのは、この録音を聞くと納得が出来ます。
だぶつきをだぶつきとして愛せる人でないとこういう作品は上手く描ききれないのでしょう。
ただし、録音に関しては「驚異的」と言えるほどに優秀です。1947年というクレジットは何かの間違いではないかと思えるほどです。