クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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R.シュトラウス:交響詩「ドンファン」 作品20

ブルーノ・ワルター指揮:ニューヨーク・フィルハーモニック 1952年12月29日録音

  1. Richard Strauss:Don Juan, Op.20


シュトラウスの交響詩第1作

交響詩の歴史を振り返ってみると、ベルリオーズに源を発し、それをリストが引き継いで、リヒャルト・シュトラウスが完成させたといっていいでしょう。そんな、完成者シュトラウスの交響詩第1作となったのがこの「ドン・ファン」です。もっとも、作品そのものとしてはすでに「マクベス」が完成していたのですが、ビューローの忠告で改訂することとなったために、この「ドン・ファン」が最初の完成作品となったわけです。

ドン・ファン伝説はスペインで生まれたものですが、その後ヨーロッパ全体に広がっていき、ついにはあのモーツァルトでさえオペラの題材として取り上げるまでになります。もちろん、音楽の分野だけでなく、詩や戯曲にも幅広く取り上げられていくようになります。
言うまでもなく、ドン・ファンとは好色な貴族として描かれ、それは17世紀のスペイン宮廷の色と欲に満ちた権力者たちへの痛烈な皮肉・風刺として生み出されたものでした。
しかし、そのドン・ファン伝説は時代とともに次第に変容していきます。特に、19世紀に入って、ドイツの詩人レーナウが描いた「ドン・ファン」は、求めても求め得ない至高の女性を追い求める理想主義的な人物として描かれるようになります。ですから、レーナウの描くドン・ファンはモーツァルトのオペラのように地獄に落ちるのではなく、「薪は尽きたり。炉辺は暗く寒くなれり」と呟いて、一人寂しくこの世を去っていくことになります。

シュトラウスがその物語に共感して音楽化を思い立ったドン・ファンは、好色な貴族としてのドン・ファンではなく、レーナウが描く寂しい理想主義者としてのドン・ファンでした。ですから、モーツァルトのように華々しい「地獄落ち」でクライマックス!!・・・と言うことはなく、静かに消え入るように音楽は閉じられます。
専門家の言によると、シュトラウスの交響詩は「客観化」の時代から「主観化」の時代、そして最後に「普遍化」の時を過ぎて、次の「オペラ」の時代へと遷移していくそうです。何だか、よく分からない話ですが、要は、交響詩を作り始めた初期の時代は、作品と私生活の間にはあまり関連性がないと言うことです。

確かに、「死と変容」にしても、彼は死の危険を感じるような重病を経験したわけでもありませんし、この「ドン・ファン」にしても理想の女性を追い求めて破滅的な人生に陥る危険に遭遇したわけでもありません。
一説によると、この作品には、将来彼の妻となるパウリーネとの関係が投影していると言われますが、二人はこの後目出度くゴールインして終生幸福な結婚生活をおくるようになるのですから、あまり深読みは禁物かもしれません。
個人的には、後の自己顕示欲の塊みたいな「英雄の生涯」なんかを書くようになるシュトラウスよりは、音楽のドラマとしてスマートに、そして客観的に描ききった初期作品の方が好みです。

堂々として風格のある音楽として仕上げている


調べて気づいたのですが、ワルターはリヒャルト・シュトラウスを殆ど録音していません。ライブ録音はそれなりに残っているのでコンサートで取り上げなかったと言うことはないようなのですが、スタジオでの録音は数えるほどしか存在しないようで、さらに、その大部分は戦前のもののようです。
私が知る限りでは、戦後のスタジオ録音として残っているのは1952年に録音した交響詩の「ドン・ファン」と「死と変容」だけです。当然の事ながらモノラル録音であり、コロンビア響とのステレオ録音では一つも取り上げていません。
その背景には、ナチスから受けた数々の迫害と、そのナチスの政権下で音楽界の要職(帝国音楽院総裁)につき、さらにはナチスの要請に応じて様々な音楽活動を行った事は否定しようがないリヒャルト・シュトラウスという関係を見れば、それもまた仕方のないことだったのかもしれないとは思います。
しかし、穏やかな人格者であったワルターは、戦後もナチスと協力関係にあった音楽家達に否定的な発言をしたという話も聞いたことがありません。ただし、フルトヴェングラーとの関係はギクシャクしたものがあり、彼が戦後シカゴ響の音楽監督への就任を要請されたときに、その反対陣営に加わらなかったものの、手紙ではかなり厳しい意見を伝えていたとも言われています。
ですから、そう言うナチスをめぐってのあれこれの思いは胸の奥では消えるものではなかったのでしょう。

「いかなる形であれナチスに関わったものは全てナチスである」と痛烈に批判したトスカニーニや、終生ドイツでの演奏活動を拒否し続けたルービンシュタインのような強い思いは表明しなかったものの、その底にある思いの強さはそれほど変わらなかったのかもしれません。
ただ、この二つの交響詩の録音を聞いてみると、その様なナチスとの関わりだけでなく、音楽的に両者は何処かそりが合わないような気もします。

リヒャルト・シュトラウスの音楽は華麗な管弦楽法でどれほどゴージャスにオーケストラを鳴らしても、何処か「軽み(かろみ)」の様なものを感じます。誤解のないように言い添えておきますが、それはリヒャルト・シュトラウスの音楽が「軽い」と言っているのではありません。「軽み」と「軽い」では全く別の概念です。そして、その「軽み」こそがリヒャルト・シュトラウスの音楽の魅力といえるのかもしれません。
しかし、そのういうリヒャルト・シュトラウスの音楽をワルターはどっしりとした低声部を土台とした豊かな響きで、実に堂々として風格のある音楽として仕上げてしまっています。そして、そう言う音楽を聞くと、やはりワルターというのは偉大な指揮者だったと思うのですが、おそらくリヒャルト・シュトラウス本人が聞けば気にくわなかっただろうと思われます。

最も、それはあくまでも私の妄想であり、本当のところは本人に聞かなければ分からないのですが、これが録音されたときにはリヒャルト・シュトラウスはすでに亡くなっていました。ですから、後に残るのは、リヒャルト・シュトラウスの音楽を、やろうと思えばこれほどまでに風格のある音楽に仕立て上げられるという事実だけです。

それから、最後にもう一つ面白い事実に気づきました。
それは、この交響詩の録音を行った前日に以下のプログラムでワルターはニューヨーク・フィルの定期公演を行っているのです。

1952年12月28日:カーネギーホール

  1. ワーグナー:楽劇「パルシファル」前奏曲

  2. ワーグナー:ジークフリート牧歌

  3. ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死

  4. リヒャルト・シュトラウス:交響詩「死と変容」

  5. リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」


つまりは「リハーサル」→「公演本番」→「レコーディング」という形で事を進めているのです。
このやり方はジョージ・セルとクリーブランド管などではお決まりの手順であり、レコード会社にとっても演奏する側にとっても最も手間がかからず(と言うことはコストもかからないと言うこと)、さらには演奏のパフォーマンスも最高のものが期待できるという大きなメリットもあります。
何しろ、公演本番までに入念にリハーサルを行い、さらには公演本番の熱気をはらんだままレコーディングに臨めるのです。
ですから、セルなどはレコーディングではライブと同じように一気に通して演奏を行い、そのままOKがでることがありました。もしも、些細なミスがあれば、その部分だけをもう一度録りなおしてお仕舞いです。つまりは、セル&クリーブランド管にとって「ライブ録音」というのは「未完成のスタジオ録音」のようなものなのです。

そして、このワルターの録音からもライブさながらの熱気が感じられるのは上のような事情もあったからでしょう。
最晩年のコロンビア響との録音では、録音時間は一日に3時間以内と決められていて、念入りに時間をかけて丁寧に音楽作りが行われました。それは、結果として非常に完成度の高い音楽を聞くことができるという喜びを私たちに残してくれる結果となったのですが、ワルターのモノラル録音から聞くことができるような熱気がいささか希薄になったのは、ワルターがすでに一度は現役を引退した後の録音と言うことだけでなく、そう言う録音の仕方の違いも大きく影響していたのかもしれません。