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モーツァルト:交響曲第25番 K183
ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1954年12月10日録音
- モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K.183 「第1楽章」
- モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K.183 「第2楽章」
- モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K.183 「第3楽章」
- モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K.183 「第4楽章」
ト短調は宿命の調性?
モーツァルトは交響曲を何曲作曲したか?ナンバーは41番「ジュピター」までですから当然41曲となるわけですが、事情はそれほど簡単ではありません。なぜなら、交響曲という形式が発展途上の時期だっただけに、どこで線を引くのかが難しいのです。ディベルティメントやセレナードと題されていても、交響曲とどこか違うのか判然としないものもあります。逆に、交響曲といってもディベルティメントの範疇に放り込まれて不自然でない曲もたくさんあります。
それなら、多楽章形式の管弦楽曲はみんな交響曲の範疇に入れてしまえとばかり、60曲をこえる作品を交響曲と認定して全集を作ったボグウッドみたいな人もいます。そういえば、この全集がリリースされたときは「これぞモーツァルトの交響曲全集の決定盤!」と多くの評論家先生達は天まで持ち上げたものですが、今はこの録音に言及する人はほとんどいません。
評論家先生の言う新譜の決定盤はそのほとんどがこういう運命をたどります。
これでは評論家というのはレコード会社の広報担当とほとんど同義語です。
閑話休題。
さて、それほどたくさんある交響曲の中で短調の曲はわずか二つしかありません。そしてともに、ト短調です。
一つは有名な40番、そしてもう一つがこの25番です。この二つを区別するために25番の方を「小ト短調」などと言ったりします。
40番がモーツァルト晩年の傑作の一つだとすれば、25番は青年モーツァルトの最高傑作の一つです。音楽的に素晴らしいのは言うまでもないことですが、10代の若者にしか書けないだろうなと思わせられるところに一番の魅力があります。(ちなみに、17歳の時にわずか二日で書き上げた作品だと言われています。)
この作品は同時代に書かれた多くの交響曲の中では全く孤立した存在です。
当時のコンサートは貴族の社交の場ですから、その様な社交の場にふさわしい明るく、軽快で爽快さのある曲が好まれていました。この思い詰めたような悲劇的感情の表出はその様なコンサートには全く不向きなだけにいったい何の目的で作曲されたのかといぶかしくなります。
ただ、24番と25番はセットで作曲されたことは知られており、その性格は対照的なだけに、この作品をモーツァルト個人の悲劇的体験に結びつけるような解釈には疑問があります。
特にト短調という調性に思い入れを持って聞く習慣が日本には古くからあるためかf(^^;;、とりわけそこに若きモーツァルトの内面に渦巻く芸術的危機などを想像してしまう傾向がありました。それらはあまりにも19世紀ロマン派的なバイアスがかかりすぎた見方だといわねばなりません。
それよりは、ユング君はここに新しい表現形式を手に入れて、その可能性を窮め尽くそうと無邪気にこの短調という表現形式にじゃれついている姿を感じます。
冒頭のシンコペーションで奏される弦楽器のユニゾンを聴くだけで、それは今までの明るいギャラントな雰囲気とは全く異なるものである事はすぐに分かります。そしてそれ以後に展開されるのは、社交の場を華やかに彩る「添え物としての音楽」ではなく、純粋な音による「悲劇的ドラマの展開」であることもすぐに了解できます。
それはバッハのマタイなどに聞ける悲劇的で真摯な人間的感情の追求を行った音楽との類似性を感じさせられます。
バッハは音楽と言葉を伴った形式でドラマを展開しましたが、それと同じ事をモーツァルトは音だけで挑戦したのがこの小ト短調のシンフォニーだったのではないでしょうか。
しかし、ユング君が「無邪気に」と言ったのは、この作品でかくも素晴らしい音によるドラマの展開をさせながら、次の瞬間には何事もなかったかのように、再びもとのギャラントな様式で明るい音楽を書き続けたところが、子どもが新しいおもちゃを与えられて一時は夢中になっても、すぐに元のお気に入りのおもちゃに戻るのと似ているような気がしたからです。
ただ、モーツァルトがすごいのは、そのちょっとした移り気でかくも素晴らしい作品を生みだしてしまうことです。
そう考えると、モーツァルトの短調に、特にト短調という調性に特別の重みを見るのはやめた方がいいのかもしれません。それは、時々さわってみたくなるおもちゃであって、彼の本質は長調にあったように思います。そういえば、最近は少しずつ中期のギャラント様式の長調の作品を評価しなおそうという動きもあるようです。
勿論、だからといってこの25番も含めた一連の短調の作品の評価が下がると言うわけではありませんが、一度19世紀的バイアスのかからない目でこれらの作品を見直してみる必要はあるのかもしれません。
ワルターのベストはニューヨークフィルとのモノラル録音にあり!!
ワルターといえば一昔前はモーツァルト演奏のスタンダードでした。彼が没したあとにはその地位にベームが「就任」したわけなのですが、そのモーツァルト演奏の素地も、ワルターのもとで修行したミュンヘン歌劇場時代に培ったものでした。
それから時は流れ、古楽器による演奏が一世を風靡する中で、モダン楽器による大編成のオケでモーツァルトを演奏するなんてことは時代錯誤も甚だしいと思われるようになってしまいました。
たしかに、ベームによる交響曲全集を聴くと「鈍重」という言葉を否定しきれませんし、ワルター最晩年のコロンビア響との演奏においても事情は同じです。古楽器演奏は必ずしも好きではないユング君ですが、それでもその洗礼を受けてしまった耳には、彼らの演奏はあまりにも反応が鈍いと思わざるをえません。
問題は低声部の強調にあるのだろうと思います。
とりわけワルターは低声部をしっかりと響かせます。その結果として、土台のしっかりとした厚みのある壮麗な響きを実現しています。
しかし、低声部を担当する楽器というのは小回りはききません。そう言う小回りのきかない鈍重な楽器を強調すれば、それはオケ全体の機能性にとっては大きなマイナスとならざるを得ません。これが、セルとクリーブランドのような「鬼の集団」ならばクリアするのでしょうが、その様なやり方はワルターが好むところではありません。
しかし、ワルターが現役として活躍した50年代前半のモノラル録音を聴くと、同じように低声部はしっかりと響かせながらも、決して「鈍重」なモーツァルトとは感じません。オケはモダン楽器の特性をいかした壮麗な響きを保持しながら、ワルターの棒に機敏に反応しているように聞こえます。結果として音楽は「鈍重」になることなく生き生きとした活力に満ちています。
おそらく、ここに「現役」の指揮者として活動している時と、「引退」した指揮者の「昔語り」との違いがあるのでしょう。
ワルターは戦前のSP盤の時代から、最晩年のステレオ録音の時代まで数多くのモーツァルト演奏を録音として残しています。別のところでも書いたことですが、その長い活動の中で演奏スタイルを大きく変えていったのがワルターの特長です。
そして、その長い活動の中の「昔語り」に属する演奏が、ワルターを代表する業績として世間に広く流布して、それでもって彼の評価がされるようになったということは実に不幸なことでした。これは、ニューヨーク時代のモノラル録音のリリースに積極的でなかったSONYの責任が大きいのですが、それもまたコロンビア響とのステレオ録音を売らんがための戦略だったとすれば悲しいことです。
しかし、幸いなことに、ワルターのモノラル録音のほぼすべてがパブリックドメインの仲間入りを果たしました。今後、ネット上で広く流布することを通してワルターへの再評価が進めばこれほど嬉しいことはありません。
なお、モノラル録音の時代にもオケが「コロンビア交響楽団」となっているものがありますが、これは最晩年のステレオ録音のために特別に編成された「コロンビア交響楽団」とは全く別の団体です。
その実態は明確ではありませんが、おそらくはニューヨークフィルのメンバーを主体にしてそこにメトのメンバーが加わった臨時編成のオケだったと思われます。ちなみに、ステレオ録音を担当した「コロンビア交響楽団」の方はロサンジェルスフィルを主体とした50人程度の小規模なオケだったと言われています。