万葉集を読む(10)~山上憶良「惑へる情を反さしむるの歌 巻五 800~801番」(4)

憶良の反論は二つの部分に分かれます。
まず最初はいささか嫌みを込めた投げかけの形をとっています。

穿沓(うげぐつ)を 脱ぎ棄(つ)る如く 踏み脱ぎて 行くちふ人は 岩木より 生(な)り出し人か
汝が名告(の)らさね

「穿沓」は破れた沓のことだそうです。
ですから、「破れた靴を脱ぎ捨てるように、この世の中のあらゆるしがらみを抜け出していこうという人は」みたいなニュアンスになるようです。
ただし、このあたりもまた現代語に訳してしまうと、「脱ぎ棄る」「踏み脱ぎて」と重ねることで生じる文章のリズムや惑へる心のやるせなさみたいなものが消えてしまいますから、その様なニュアンスを心に留めながら何度も口に出して読んでみることが大切です。

万葉の花 カタクリ

そして、憶良はそう言う人を「岩木より 生(な)り出し人か 」と問いかけているのです。
出てきました「岩木」です。

これは、日本挽歌でも「石木をも 問ひ放(さ)け知らず」という形で登場した言葉です。
万葉人にとっては「岩木(石木)」とは一切の人間的感情を持たない存在として認識されていましたから、貴方は人間ではなくてそう言う岩木から生まれてきた人なのですかと問いかけているのです。

そして、そこに重ねるように「汝が名告(の)らさね」と畳みかけているのです。
一体全体あなたは何という人なのですか、名前を名乗ってみなさいと投げかけているのです。

そして、憶良はそれに続く部分で諄々と説き聞かせ始めます。
ただし、その部分になると急に不思議な雰囲気に一変します。

天へいかば 汝がまにまに
地(つち)ならば 大君います
この照らす 日月の下は
天雲の 向伏(むかぶ)す極(きはみ) 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極(きはみ) 聞こし食(お)す
国のまほらぞ かにかくに
欲しきままに 然(しか)にはあらじか

特に、「この照らす 日月の下は」からは明らかに転調しています。

その前段の「天へいかば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います」までは明らかに「序」における「意気(こころいき)は青雲の上に揚(あが)るといえども、身体は猶塵俗の中に在り。」に呼応した表現です。
「天へいかば 汝がまにまに」、つまりは、あなたが天にいるならばあなたの好きなようにすればいいでしょうと言うのは「意気(こころいき)は青雲の上に揚(あが)るといえども」に呼応しています。
そして、「身体は猶塵俗の中に在り」は「地(つち)ならば 大君います」に呼応しています。
その身が地上にあるならばそこには大君がいらっしゃるのですよと告げるのです。

「序」から始まって、ここまでは一貫して儒教的な道徳観に裏打ちされた「理」の世界を展開してきました。
しかし、その「理」の世界が「大君」という言葉をきっかけとして一気に日本的な世界観、もう少し明確に言えば「神道的な価値観」に転調していくのです。

この照らす 日月の下は
天雲の 向伏(むかぶ)す極(きはみ) 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極(きはみ) 聞こし食(お)す
国のまほらぞ かにかくに

これを意味は分からなくても声に出して読んでみれば、それはまるで神主さんが読み上げる祝詞のように感じられるはずです。
井上先生によれば「天雲の 向伏す極」とか「谷蟆の さ渡る極」というのは非常に特徴的な表現なのですが、それは「新年祭祝詞」などに登場する表現らしいです。

「この照らす」の「この」は明らかに「大君」を指し示しますから、以下は大君が君臨するこの地上からは逃れられないことを説得する文章です。
しかし、その言い回しは、呪文のような祝詞の言葉を使っているので、それは雰囲気的には呪いをかけられているように感じてきます。

大君が君臨する日月のもとでは、天雲がたなびく果てまで、ひきがえる(谷蟆とはひきがえるのこと)がわたっていく果てまで全て大君が治めておられるのだというような意味なのでしょうが、大切なのはこの祝詞のような言葉に込められた「言霊」の力なのでしょう。
これもまた、当然の事ながらこれを現代語に訳してしまえば言葉の霊力は失われてしまいます。

そして、言葉が持つその様な霊力というものは現代人には理解もしづらいし実感もしにくいのですが、「この照らす 日月の下は 天雲の 向伏(むかぶ)す極(きはみ) 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極(きはみ) 聞こし食(お)す」と口に出して何度も読み上げれば、その霊力のようなものを少しは感じと取れるような気がします。

つまりは、戸籍を離れていく人が続出するというのは当時の政権にとっては無視できない出来事でしたし、国主であれば具体的な措置をとらなければいけない重要な課題であったはずです。
しかし、この長歌を詠む限りでは、そう言う人々に対して三綱や五教などという儒教的道徳観、つまりは「理」を持って説得しても意味はないと言うことを感じていたようなのです。

それは「日本挽歌」の所でも感じたことなのですが、儒教や仏教という中国的な教養を誰よりも身につけていた憶良が、そう言う「理」だけでは日本人の心情の深いところに食い込めないことを感じていた事の証しのように思えるのです。
ですから、この後半部分における急な転調もまた、その様な憶良の思いを反映したものだったのでしょう。

そして、面白いと思うのでは最後は「欲しきままに 然(しか)にはあらじか」と投げ出してしまうのです。
さらに、まとめとしての反歌も以下のような素っ気ないものなのです。

久かたの天道(あまぢ)は遠しなほなほに家に帰りて業(なり)を為(し)まさに

「欲しきままに」というのは「あなたの思うようにお好きにやってみればいいでしょう」みたいなニュアンスです。
「遺(おく)るに歌をもちてして、其の惑(まどひ)を反さしむ」と言ったけれどやっぱり難しいよなぁという感情が透けて見えるような投げ出し方です。

そして、最後の反歌も「大君の治めるこの天地は限りなく遠くてそれからはのこからは逃れられないのだから、家に帰って仕事に励みなさいよ」よいうのですから、殆ど説得を諦めたような雰囲気です。
「其の惑を反さしむ」と言いつつも、最後に決めるのはなた自身ですよと言うのは、それは現在にも通ずる言葉ですね。(続く)