クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11


P:ルービンシュタイン ウォーレンステイン指揮 ロサンジェルス・フィル 1953年12月12日録音をダウンロード

  1. ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11 「第1楽章」
  2. ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11 「第2楽章」
  3. ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11 「第3楽章」

告別のコンチェルト



よく知られているように、ショパンにとっての協奏曲の第1作は第2番の方で、この第1番の協奏曲が第2作目の協奏曲です。

1930年4月に創作に着手され、8月には完成をしています。初演は、同年の10月11日にワルシャワ国立歌劇場でショパン自身のピアノ演奏で行われました。この演奏会には当時のショパンが心からあこがれていたグワドコフスカも特別に出演をしています。

この作品の全編にわたって流れている「憧れへの追憶」のようなイメージは疑いもなく彼女への追憶がだぶっています。
ショパン自身は、この演奏会に憧れの彼女も出演したことで、大変な緊張感を感じたことを友人に語っています。しかし、演奏会そのものは大成功で、それに自信を得たショパンはよく11月の2日にウィーンに旅立ちます。

その後のショパンの人生はよく知られたように、この旅立ちが祖国ポーランドとの永遠の別れとなってしまいました。

そう意味で、この協奏曲は祖国ポーランドとの、そして憧れのグワドコフスカとの決別のコンチェルトとなったのです。

それから、この作品はピアノの独奏部分に対して、オーケストラパートがあまりにも貧弱であるとの指摘がされてきました。そのため、一時は多くの人がオーケストラパートに手を入れてきました。しかし最近はなんと言っても原典尊重ですから、素朴で質素なオリジナル版の方がピアノのパートがきれいに浮かび上がってくる、などの理由でそのような改変版はあまり使われなくなったようです。

それから、これまたどうでもいいことですが、ユング君はこの作品を聞くと必ず思い出すイメージがあります。国境にかかる長い鉄橋を列車が通り過ぎていくイメージです。ここに、あの有名な第1楽章のピアノソロが被さってきます。
なぜかいつも浮かび上がってくる心象風景です。


ほとんど私の妄想みたいなものですが・・・。


これから書くことは、私の全くの妄想です。できれば、気楽に読み流していただければと思います。
今回、意地悪く2種類の音源を同時にアップしてみました。



ピアニストは当然のことながら両方ともルービンシュタインです。
さて、この二つを聞き比べてみると、8年の隔たりがあるのですが、全く別人かと思うほどに様相が異なります。オケに関して言えば、61年の録音はステレオですから、実にふくやかで広がりのある響きが楽しめます。それと比べると、53年のモノラル盤はかなりソリッドでドライな響きです。
しかし、そのようなことを差し引いても、あくまでも逞しく強靱な響きで全曲を押し切っている53年盤のルービンシュタインには大きな魅力を感じます。悪く言えば、61年盤ではルービンシュタインは「ヘタレ」になっています。

しかし、この数週間、ひたすらルービンシュタインの録音を聞き続けていくうちに、ある考えが閃きました。

それは、1960年のショパンコンクールでのポリーニの「発見」が、ルービンシュタインに大きな転換をもたらしたのではないかという考えです。
ルービンシュタインは、この年のコンクールでポリーニを絶賛し「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を送ったことはよく知られたエピソードです。そして、その優勝の年にポリーニはこのコンチェルトを録音しているのですが、その録音を聞くと、何故にルービンシュタインがポリーニを絶賛したのかがよく分かります。

「ここには「曖昧」という言葉は一切存在しません。普通のピアニストであれば、何となく雰囲気で弾きとばしてしまうような部分であっても、ポリーニの場合はその中に含まれるどんな小さな音をも曖昧にしないで弾ききっています。」
「このようなピアニズムこそが、ルービンシュタインが生涯をかけて求め続けながらも結局は手に入れることのできなかったもの・・・です。」

ここからは私の全くの妄想です。
おそらく、このコンクールでポリーニを発見したときに、ルービンシュタインは驚きと同時に、ほくそ笑んだはずです。
何故ならば、絶対無比で、並ぶべきものもない存在であったホロヴィッツの牙城が崩れる時がきたことを予感できたからです。

ルービンシュタインという人は正直な人です。
彼がいかにピアノの王様と絶賛されても、その背後には常にホロヴィッツの影がちらつき、彼の完璧なピアニズムには到底届かないことにコンプレックスを感じていることを正直に語っています。
ですから、50年代のモノラル録音には、ホロヴィッツには負けるものかという気負いが感じられます。しかし、そのおかげで彼は一流のピアニストへと成長し、後年のステレオ録音のへたれたルービンシュタインしか知らない人には想像もできないような強靱さで音楽を構築していたのです。

しかし、どうやら、ホロヴィッツという「存在」も、いつまでも絶対的な存在ではなくなりつつあることを、彼はポリーニのなかに見いだしたのでしょう。
ホロヴィッツの完璧無比なテクニックは、それに比肩するものがいない時はその価値は絶対的なものでした。しかし、それに肩を並べるものが次々と現れてくれば、その価値は低下し、輝きも色褪せるはずです。
そうなれば、いつまでもホロヴィッツに張り合って、ホロヴィッツ張りの演奏をする必要もなくなると言うことです。

そうして、己の立ち位置をもう一度冷静に振り返ってみれば、自分は持っていてもホロヴィッツにはないものがあることに気づいたはずです。
例えば、肩の力を抜いてリラックスしているように見えながらも、テンポルパートによる豊かな歌心で何とも言えない味わい深い世界を描いていく能力など・・・です。
つまりは、もう無理して、ホロヴィッツと張り合う必要はないんだ、そんなしんどい仕事はこれからは若手が肩代わりをしてくれるだろう・・・なんてことを思ったのではないでしょうか。

まあ、早い話が、ホロヴィッツ対抗路線をやめてしまったのです。
そう思ってしまうほどに、60年、61年をさかいにルービンシュタインの芸風が変化したように思えます。そして、このリラックス路線に転換したが故に、彼は最後の最後まで現役の「一流ピアニスト」として活躍することができたのです。
ただし、その方向転換によって、聞くに値しないピアニストと判定する人もいたのですが、多数の人々は「堂々とした風格あふれる演奏」であるとか、「作品を完全に手中に収めた老練な表現」であるとか、「淡々とした表現のなかにまろやかでコクのある叙情を浮かび上がらせる」とか、果ては「高潔で格調の高い表現のなかに、老いても失われない新鮮さがにじみ出ている」などと絶賛されることになったのですから、基本的には大成功だったのでしょう。
実に、したたかな爺さまです。

まあ、私の妄想の域を出ませんが・・・。