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ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68


カンテッリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1953年5月21,22日録音をダウンロード

  1. ブラームス 交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第1楽章」
  2. ブラームス 交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第2楽章」
  3. ブラームス 交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第3楽章」
  4. ブラームス 交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第4楽章」

ベートーヴェンの影を乗り越えて



 ブラームスにとって交響曲を作曲するということは、ベートーヴェンの影を乗り越えることを意味していました。それだけに、この第1番の完成までには大変な時間を要しています。

 彼がこの作品に着手してから完成までに要した20年の歳月は、言葉を変えればベートーヴェンの影がいかに大きかったかを示しています。そうして完成したこの第1交響曲は、古典的なたたずまいをみせながら、その内容においては疑いもなく新しい時代の音楽となっています。


 この交響曲は、初演のときから第4楽章のテーマが、ベートーヴェンの第9と似通っていることが指摘されていました。それに対して、ブラームスは、「そんなことは、聞けば豚でも分かる!」と言って、きわめて不機嫌だったようです。

 確かにこの作品には色濃くベートーヴェンの姿が影を落としています。最終楽章の音楽の流れなんかも第9とそっくりです。姿・形も古典派の交響曲によく似ています。
 しかし、ここに聞ける音楽は疑いもなくロマン派の音楽そのものです。

 彼がここで問題にしているのは一人の人間です。人類や神のような大きな問題ではなく、個人に属するレベルでの人間の問題です。
 音楽はもはや神をたたるものでなく、人類の偉大さをたたえるものでもなく、一人の人間を見つめるものへと変化していった時代の交響曲です。

 しかし、この作品好き嫌いが多いようですね。
 嫌いだと言う人は、この異常に気合の入った、力みかえったような音楽が鬱陶しく感じるようです。
 好きだと言う人は、この同じ音楽に、青春と言うものがもつ、ある種思いつめたような緊張感に魅力を感じるようです。

 ユング君は、若いときは大好きでした。
 そして、もはや若いとはいえなくなった昨今は、正直言って少し鬱陶しく感じてきています。(^^;;
 かつて、吉田秀和氏が、力みかえった青春の澱のようなものを感じると書いていて、大変な反発を感じたものですが、最近はこの言葉に幾ばくかの共感を感じます。
 それだけ年をとったということでしょうか。

 なんだか、リトマス試験紙みたいな音楽です。


現代的な演奏スタイルが既に確立されています。


カンテッリと言えばトスカニーニの後継者と目されながら、飛行機事故によってわずか36歳でこの世を去った悲劇の指揮者として記憶されています。本格的な録音活動は50年代に入ってからですから、残された数は多くはありません。
ですから、いかにその人生が悲劇的な物語で脚色されても、半世紀もすれば忘却の彼方に消え去って当然なのですが、意外なことに今も多くの人の記憶の中に生き続けています。ネット上を散見しても、カンテッリを専門的に取り上げているサイトがいくつも存在します。
ベームのように、存命中はあらゆる栄光につつまれながら、その死によって急速に忘れ去れていく人もいるのですから、不思議と言えば不思議な話です。

カンテッリと言えばもう一つ、トスカニーニが「私の若い頃に似ている」と述べたこともよく取り上げられるエピソードです。彼の演奏を特徴づけるのは内部の見通しの良さと、それに基づく確かな造形力でしょう。それは、既にアップしてあるチャイコフスキーの録音からもよく聞き取れます。
トスカニーニは彼のことを「私の若い頃とよく似ている」と言いましたが、第三者の目でじっくりと聞いてみれば、トスカニーニよりはさらに造形がシャープでメリハリがはっきりしているように思えます。あまり、こういう簡単な言葉でまとめてしまうといけないのですが、より現在的なスタイルだといっていいのでしょう。ですから、彼の死から半世紀以上が経過するのですが、その演奏スタイルには古くささというものを全く感じません。

しかし、逆に言えば、こういう演奏は、今の指揮者からでも聞き取ることのできる類のものだとも言えます。古い録音に、今にはないある種の「濃さ」みたいなものを求める向きがあって、それは私も全くそうなのですが、そう言う人にとっては全く持って物足りなく思える演奏であることも事実です。しかし、50年代の中葉において、既にこういうスタイルの演奏がされていたという演奏史における立ち位置を考えてみれば実にもって興味深い録音ではあります。
ともすれば、暑苦しくて、鬱陶しくなってしまいがちなブラームスの交響曲を、これほどまでにスッキリと造形するというのは、今のオケと指揮者を持ってしても、そうそう聞けるものではありません。(ただし、ないわけではない・・・、その事も事実です。)