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メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調, Op.64
(Vn)ジノ・フランチェスカッティ:ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック 1954年11月17日録音をダウンロード
ロマン派協奏曲の代表選手
メンデルスゾーンが常任指揮者として活躍していたゲバントハウス管弦楽団のコンサートマスターであったフェルディナント・ダヴィットのために作曲された作品です。ダヴィッドはメンデルスゾーンの親しい友人でもあったので、演奏者としての立場から積極的に助言を行い、何と6年という歳月をかけて完成させた作品です。
この二人の共同作業が、今までに例を見ないような、まさにロマン派協奏曲の代表選手とも呼ぶべき名作を生み出す原動力となりました。
この作品は、聞けばすぐに分かるように独奏ヴァイオリンがもてる限りの技巧を披露するにはピッタリの作品となっています。かつてサラサーテがブラームスのコンチェルトの素晴らしさを認めながらも「アダージョでオーボエが全曲で唯一の旋律を聴衆に聴かしているときにヴァイオリンを手にしてぼんやりと立っているほど、私が無趣味だと思うかね?」と語ったのとは対照的です。
通常であれば、オケによる露払いの後に登場する独奏楽器が、ここでは冒頭から登場します。おまけにその登場の仕方が、クラシック音楽ファンでなくとも知っているというあの有名なメロディをひっさげて登場し、その後もほとんど休みなしと言うぐらいに出ずっぱりで独奏ヴァイオリンの魅力をふりまき続けるのですから、ソリストとしては十分に満足できる作品となっています。。
しかし、これだけでは、当時たくさん作られた凡百のヴィルツォーゾ協奏曲と変わるところがありません。
この作品の素晴らしいのは、その様な技巧を十分に誇示しながら、決して内容が空疎な音楽になっていないことです。これぞロマン派と喝采をおくりたくなるような「匂い立つような香り」はその様なヴィルツォーゾ協奏曲からはついぞ聞くことのできないものでした。また、全体の構成も、技巧の限りを尽くす第1楽章、叙情的で甘いメロディが支配する第2楽章、そしてファンファーレによって目覚めたように活発な音楽が展開される第3楽章というように非常に分かりやすくできています。
確かに、ベートーベンやブラームスの作品と比べればいささか見劣りはするかもしれませんが、内容と技巧のバランスを勘案すればもっと高く評価されていい作品だと思います。
坂の上の雲
フランチェスカッティといえば、「美音」が売り物でした。50年代の日本ではハイフェッツと並ぶほどの人気のあったヴァイオリニストで、ワルターがコロンビア交響楽団とのコンビで「復活」したときに、日本からの要望でモーツァルトのコンチェルトが録音されたほどでした。
しかし、あの録音は本音の部分では気に入りませんでした。何故に気に入らなかったかと言えば、それはモーツァルトの項で述べていますので、そちらをご覧ください。取り上げた以上は悪口は控えめにして(悪口なんてのは、言おうと思えばいくらでも因縁はつけられるものです)、その録音が持っている美点を紹介するように努めているので、「悪い人」などという裏読みでカバーしているのですが、間違ってもファースト・チョイスやセカンド・チョイスにはならない出来映えでした。
しかし、このメンデルスゾーンは素晴らしいです。
正直言って、彼のメンコンといえばステレオ録音の方ばかりが流通しているので、このモノラル録音の方はようやくにして探し当てた一枚でした。好事家の間では、このモノラル録音の方が圧倒的に評価が高いので、さて「お手並み拝見」とばかり聞き始めたのですが、冒頭の短いオーケストラ伴奏に続いてあの有名な旋律が流れ出したとたんにノックアウトされてしまいました。
いやぁ、これは凄い。
おまけに、音質に関しても、モノラル録音としては極上の部類に属します。
冒頭の有名な旋律は、一切の曖昧さやロマン的感傷などは排されて毅然と描き出されるのですが、ハイフェッツのような乾ききった印象ともどこか違います。全ての細部にはクッキリと光が当てられているので光と影のコントラストはあくまでも鮮やかなのですが、ヴァイオリンの音色は決して乾いていないので、どこか妖しい魅力を失うことはありません。(ただし、そのような微妙なニュアンスが圧縮されたMP3でどこまで伝わるのかは心許ないです。はやくFLACにも変換してアップしないといけないですね。)
また、ワルターとのコンビでは不満に思った細身の音色も、ここでは全く影をひそめています。おそらく、フランチェスカッティの全盛期は50年代であって、60年代にはいると既に衰え始めていたと言うことなのでしょう。
なるほど、これならば、メンコンのファースト・チョイスとして選んだとしてもそれほど的外れではないでしょう。
もちろん、沈みゆく夕陽に涙を流すような感傷に身をゆだねるには不向きな録音です。そう言う感傷に身をひたすことに快感を覚えるのは、時代と社会が下り坂に向かっているときであって、まさに上だけを見つめて駆け上がっていこうとしていた50年代のアメリカに相応しいのはこのような演奏だったのでしょう。そして、その事は、一人一人の聞き手にとっても同じ事なのかもしれません。
司馬遼太郎ではありませんが、今もなお「坂の上の雲」を見つめ続けている人にとっては、己の心を鼓舞してくれる演奏だと言えるのではないでしょうか。