クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲 第3番 ロ短調, Op.61(Saint-Saens:Violin Concerto No.3 in B minor, Op.61)


(Vn)ジノ・フランチェスカッティ:ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック 1950年1月23日録音(Zino Francescatti:(Con)Dimitris Mitropoulos New York Philharmonic Recorded on January 23, 1950)をダウンロード

  1. サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3 ロ短調 作品61 「第1楽章」
  2. サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3 ロ短調 作品61 「第2楽章」
  3. サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3 ロ短調 作品61 「第3楽章」

うっとりするような美しさ



サン=サーンスという人は何故か「凡庸な作曲家」というレッテルが貼られています。このレッテルがいつ頃から貼られるようになったのかは不明ですが、おそらくはドビュッシーなどに代表される新しい潮流から保守的だと見られたのが影響しているようではあります。そして、残念ながら今もそのレッテルが彼の額から消えることはなさそうです。
おそらく、これと同じようなレッテルが貼られている作曲家は他にもいて、例えばチャイコフスキーやグリーグなどもその仲間に入ります。
ただし、チャイコフスキーは同性愛者であり、悲劇的な自殺で生涯を閉じたので、その「功」によって「芸術家」の仲間に入れられたりもします。(^^;

つまりは、誰の耳にも優しい美しい音楽を書いた人は「芸術塚」の仲間には入れません。さらにいえば、メンデルスゾーンのように裕福な家庭に生まれて恵まれた生活を送った人も「芸術家」失格です。
つまりは、この国において芸術家として認められるためには、誰にも分からないような七面倒くさい作品を生み出して、さらに人格破綻者であれば申し分ありません。芸術は爆発しなければならず、その芸術家も爆発しているような人であれば完璧です。

しかし、芸術というものを、そのような「スノッブの所有物」に貶めるのはいい加減やめにしたほうが良い頃だと思います。
聞いて楽しければ、そしてうっとりするほど美しければ、それはそれで楽しめばいいのです。もちろん、人生を抱え込んで眉間にしわ寄せて音楽を聴きたいときもあるでしょうから、そう言うときはそれに相応しい音楽を聴けばいいのだと思います。しかし、だからといって前者のような作品が「凡庸」であり、後者のような作品こそが「高尚」なのだという聴き方は、もうやめにしたほうがいいと思います。

サン=サ?ンスによるヴァイオリン協奏曲は、音楽史において大きな地位を占めているものではありません。しかし、その作品が持っている美質は、ベートーベンやブラームスは言うまでもなく、メンデルスゾーンやチャイコフスキーの作品を持ってしても代替不可能な魅力を持っています。その代替不可能な魅力を「凡庸」のひと言で片付けて聞こうとしないのはもったいない限りです。
そして、そのようなサン=サーンスの美質が最もよく表現されているのがこの第3番のヴァイオリン・コンチェルトでしょう。
このサラサーテに献呈された作品は、当然のことながら偉大なヴァイオリニストであったサラサーテを前提として書かれています。ですから、何と言っても、ヴァイオリニストが格好良く見栄が切れるように書かれています。例えば、冒頭の出だしの部分などは、実にもって見事なものです。
しかし、この作品で私が一番魅力的だと思うのは、そう言う格好いい部分ではなくて、第2楽章や最終楽章のコラール部分のような「うっとりするような美しさ」の方です。パシッと見栄を切ってくれるのもいいのですが、うっとりとするような美しい旋律を歌い上げてくれてこそヴァイオリンの魅力が生きるのだと思います。
それと、最後につけ加えておかないといけませんが、そう言う美しさがサン=サーンスの場合は不思議なほどに清潔感があって決してべたついません。淡麗辛口でべたつかないのはどこにもあるのですが、大吟醸なのにべたつかないというのは貴重です。

聞くところによると、フランスでも最近は再評価の動きがあるようです。喜ばしいことであり、さもありなんです。


妖しくも危うい美につつまれているヴァイオリン


これは素晴らしいですね。
フランチェスカッティというヴァイオリニストへの見方が大きく変わってしまいました。結構凄い人だったんですね。

私の中で、この作品のスタンダードはミルシテインの63年盤でした。もちろん、それも素晴らしい演奏だったのですが、このフランチェスカッティの録音を聞くといささか微温的に聞こえてしまいます。ミルシテインはいかにも悠然たる雰囲気で音楽を形作っていくのですが、フランチェスカッティの演奏からは何とも言えない気迫が感じられます。
特に、冒頭の短いオーケストラ伴奏に続いての日本刀の一閃のごときヴァイオリンの響きは見事なものです。そして、メンデルスゾーンでもそうだったのですが、どうやらこういう入り方はフランチェスカッティが最も得意とする技だったようです。

そして、私が大好きな第2楽章なども、のんびりとゴンドラに揺られているようなミルシテインとは違って、どこか妖しくも危うい美につつまれています。
ですから、ミルシテインで聞くときにの「ああ、いい気分だな」と思うのとは少し違った、危ない感じを楽しむような雰囲気がたまらなく魅力的です。

そして、もう一つ大書しておかないといけないのは、50年録音というクレジットがにわかに信じがたいほどの音質の良さです。
確かに、ヴァイオリンの音色というのは古い録音でも上手くすくいとられているものが多いのですが、これは特別です。さらに驚くべきは、バックのオケの音色も極めて魅力的に録音されています。
このクオリティならば、そこそこのシステムで再生すれば何のエクスキューズもつけずにフランチェスカッティの魅力を堪能できるはずです。
もしかしたら、これはフランチェスカッティのベスト録音かもしれません。