クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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マーラー:交響曲第1番 ニ長調 「巨人」


シェルヘン指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1954年9月録音をダウンロード

  1. マーラー:交響曲第1番 ニ長調 「巨人」 「第1楽章」
  2. マーラー:交響曲第1番 ニ長調 「巨人」 「第2楽章」
  3. マーラー:交響曲第1番 ニ長調 「巨人」 「第3楽章」
  4. マーラー:交響曲第1番 ニ長調 「巨人」 「第4楽章」

マーラーの青春の歌



 偉大な作家というものはその処女作においてすべての要素が盛り込まれていると言います。作曲家に当てはめた場合、マーラーほどこの言葉がぴったり来る人はいないでしょう。

 この第1番の交響曲には、いわゆるマーラー的な「要素」がすべて盛り込まれているといえます。ベートーベン以降の交響曲の系譜にこの作品を並べてみると、誰の作品とも似通っていません。

 一時、ブルックナーとマーラーを並べて論じる傾向もありましたが、最近はそんな無謀なことをする人もいません。似通っているのは演奏時間の長さと編成の大きさぐらいで、後はすべて違っているというか、正反対と思えるほどに違っています。
 基本的に淡彩の世界であるブルックナーに対してマーラーはどこまで行っても極彩色です。基本的なベクトルがシンプルさに向かっているブルックナーに対して、マーラーは複雑系そのものです。

 その証拠に、ヴァントのように徹底的に作品を分析して一転の曖昧さも残さないような演奏スタイルはブルックナーには向いても、マーラー演奏には全く不向きです。ヴァントのマーラーというのは聞いたことがないですが(探せばあるのかもしれない?)、おそらく彼の生理には全く不向きな作品です。

 逆に、いわゆるマーラー指揮者という人はブルックナーをあまり取り上げないようです。
 たとえば、バーンスタインのブルックナーというのはあるのでしょうか?あったとしても、あまり聞きたいという気にはならないですね。(そういえば、彼のチャイコフスキー6番「悲愴」は、まるでマーラーのように響いていました。)
 それから、テンシュテット、彼も骨の髄までのマーラー指揮者ですが、他のマーラー指揮者と違って、めずらしくたくさんのブルックナーの録音を残しています。しかし、スタジオ録音ではあまり感じないのですが、最近あちこちからリリースされるライブ録音を聞くと、ブルックナーなのにまるでマーラーみたいに響くので、やっぱりなぁ!と苦笑してしまいます。


何でもありの面白い時代


何でもありの面白い時代
私にはマーラーの演奏史を系統立てて解説するような能力はありません。以下の記述は、ちょっとした感想の域を出るものではありませんので、「何を馬鹿なことを言っているのだ」と思う向きもあるかとは思うのですが、まあ、笑って見逃してやってください。
マーラーの交響曲が本当の意味で多くの人に受け入れられるようになったのは80年代以降のことだと思います。当初は「マーラブーム」などと言われて一時期の下手物趣味みたいな見方もされたのですが、気がつけばクラシック音楽の王道たる交響曲というジャンルの最後を飾る定番レパートリーとして定着してしまいました。その証拠として、ブーム到来の80年代以降は様々なアプローチが試みられるようになり、極北はギーレン流の外科手術型演奏から、極南はテンシュテット流ののたうち型まで、百花繚乱ともいうべき多様性を獲得することになりました。

しかし、言うまでもないことですが、そのような爆発的ブームをむかえるまでには、数多くの献身的努力が存在しました。そのような献身的努力の中で最も大きな役割を果たしたのがバーンスタインが60年代に行った録音であることに異議を唱える人はいないでしょう。既にいいくつかの録音がパブリックドメインとなり、「Blue Sky Label」でもすでに2つの録音を紹介しています。


*マーラー:交響曲第3番 ニ短調 バーンスタイン指揮 ニューヨークフィル 1961年4月3日録音
*マーラー:交響曲第4番 ト長調 バーンスタイン指揮 ニューヨークフィル (S)レリ・グリスト 1960年2月録音


あの録音の最大の意義は、マーラーが言いたかったことをバーンスタインも心の底から共感して、その共感をありのままに表現したことにあります。それ故に、バーンスタイン以前にあった「分かりやすくして受け入れてもらおう」とか、「整理して見通しを良くしよう」などと言う「手加減」が一切加えられていないと言うことに大きな意義があったのだと思います。
おそらく、こんな書き方をすると異論が出ることは承知しているのですが、あえて言い切ってしまえば、私たちは60年代のバーンスタインの録音によって初めてマーラーと出会うことができたのです。

非常にザックリとした言い方ですが、マーラーの演奏史を俯瞰してみれば、2つの分水嶺が存在すると言うことです。
一つは60年代、もう一つは80年代です。そして、驚くべきは、その2つの分水嶺において決定的な役割を果たしたのがバーンスタインの新旧2つの全集録音だったと言うことです。おそらく、この一事だけで、バーンスタインの名前はクラシック音楽の歴史に永遠にその名が刻み込まれる価値があると言えます。

しかし、最近になって妙に気になってきたのが、60年代のバーンスタイン以前のマーラー演奏です。とりわけ、ワルターやクレンペラーというような弟子筋ではない連中がどのようにマーラーを取り上げていたのだろう、と言う興味です。
何故に興味を持ったのかと言えば、ライナーのところで述べている次の一言に尽きます。

『少しひねった見方をすれば、「価値観」の定まる前の「夜明け前」の時代というのはなかなか「何でもあり」で面白い時代だったようにも思えてきます。』

と言うことで、今回は1954年に録音された3つの巨人を捜してきました。


*クーベリック指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1954年6月録音
*シェルヘン指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1954年9月録音
*ワルター指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック 1954年録音


雰囲気としては、考古学の発掘作業みたいな感覚なのですが、掘り起こしてみると結構面白い演奏が聴けたりします。ただし、一番最初に聞いてはいけない類のものであることも事実です。そう言う「聞いてはいけない」タイプの典型がシェルヘンのマーラーでしょう。

シェルヘンがマーラーを積極的に取り上げたのは「同時代の音楽」としての面白さによるものでした。彼が、シェーンベルグなどの新ウィーン楽派の良き理解者であったことは周知の事実ですが、おそらくはマーラーの交響曲にも、シェーンベルグなどの作品のような「取り上げるべき新しさ」みたいなものを認めていたのでしょう。
しかしながら、マーラー作品というのはありとあらゆる要素がごった煮のように同居しているのが特徴です。シェーンベルグたちの無調の音楽につながっていくような新しさを内包しているかと思えば、そのすぐ隣で脳天気に軍楽隊のラッパが鳴り響くという体です。
結果として、さすがのシェルヘンも「もてあまし気味」の感があったようで、あちこちを平気でバッサリとカットしたような演奏をやったりしています。
さらに言えば、マーラーがあちこちにイジイジと書き込んだ細かい指示などはほとんど無視して、極めて直線的でメリハリの強い音楽に仕上げています。オケの機能も今と比べれば著しく劣りますから、結果として「それはないだろう」と思うような演奏になっているのですが、それでも最後まで聞き通してみると、不思議なことにマーラー作品に内包されている「狂気」がクッキリ浮かび上がってくるのです。
精緻であり、ゴージャスな響きは堪能できても、聞き終わった後に「何だったんだろう」と虚しさを覚えるような演奏とは対極にあります。

二つめがクーベリックです。
クーベリックはマーラーの同郷人であり、そう言う共感を梃子に全集を仕上げている人ですが、この50年代の録音は、バイエルンのオケと完成させた全集とは随分と雰囲気が異なるので驚かされます。
ひと言で言えば直線的で、悪く言えばのっぺりとした感じの音楽になっています。やはり、バーンスタイン以前の時代にあっては、マーラーが指示した曲線路は彼にも理解できなかったようです。交響曲というものはベートーベンのようなものであらねばならないという規範意識は、この時代にあっては今の私たちの想像を超えるほどに強かったと言うことなのでしょう。

そして、最後にワルターによる現役時代のマーラーです。
もしかしたら、バーンスタイン以前の時代にあって、マーラー作品の本質を本当に知っていたのは彼だけだったのかもしれません。しかし、彼は音楽的には師であったマーラーよりも保守的であり、さらに言えば「売れてなんぼ」の劇場的感覚に秀でた音楽家だったように思います。マーラーという男の本質をそれなりに理解はしていたものの、そして理解していたがゆえにその本質をさらけ出すことは決して多くの人に理解されないことを知り抜いていました。結果として、マーラーの音楽の分裂的要素を受容可能な範囲に上手く丸め込んでしまいました。
しかしながら、未だ現役の指揮者であったこの時代のマーラーは、コロンビア響との有名なステレオ録音と比べるとはるかに勢いがあり、そしてこれもまたかなり直線的に造形しています。その強い推進力と勢いはそれはそれで、聞くものを充分に魅了する力は持っています。

真っ直ぐ行けるところをどうして曲がりくねって進まなければいけないのか?
こう言う演奏を掘り出してくれば来るほどに、バーンスタインの凄さが私の中で膨れあがってきます。