FLAC モノラルファイルデータベース>>>Top
ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」
ロジンスキー指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1954年10月5,7,8&9日録音をダウンロード
- ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」 「第1楽章」
- ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」 「第2楽章」
- ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」 「第3楽章」
- ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」 「第4楽章」
望郷の歌
ドヴォルザークが、ニューヨーク国民音楽院院長としてアメリカ滞在中に作曲した作品で、「新世界より」の副題がドヴォルザーク自身によって添えられています。
ドヴォルザークがニューヨークに招かれる経緯についてはどこかで書いたつもりになっていたのですが、どうやら一度もふれていなかったようです。ただし、あまりにも有名な話なので今さら繰り返す必要はないでしょう。
しかし、次のように書いた部分に関しては、もう少し補足しておいた方が親切かもしれません。
この作品はその副題が示すように、新世界、つまりアメリカから彼のふるさとであるボヘミアにあてて書かれた「望郷の歌」です。
この作品についてドヴォルザークは次のように語っています。
「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう。」
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」
この「新世界より」はアメリカ時代のドヴォルザークの最初の大作です。それ故に、そこにはカルチャー・ショックとも言うべき彼のアメリカ体験が様々な形で盛り込まれているが故に「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう」という言葉につながっているのです。
それでは、その「アメリカ体験」とはどのようなものだったでしょうか。
まず最初に指摘されるのは、人種差別のない音楽院であったが故に自然と接することが出来た黒人やアメリカ・インディオたちの音楽との出会いです。
とりわけ、若い黒人作曲家であったハリー・サンカー・バーリとの出会いは彼に黒人音楽の本質を伝えるものでした。
ですから、そう言う新しい音楽に出会うことで、そう言う「新しい要素」を盛り込んだ音楽を書いてみようと思い立つのは自然なことだったのです。
しかし、そう言う「新しい要素」をそのまま引用という形で音楽の中に取り込むという「安易」な選択はしなかったことは当然のことでした。それは、彼の後に続くバルトークやコダーイが民謡の採取に力を注ぎながら、その採取した「民謡」を生の形では使わなかったののと同じ事です。
ドヴォルザークもまた新しく接した黒人やアメリカ・インディオの音楽から学び取ったのは、彼ら独特の「音楽語法」でした。
その「音楽語法」の一番分かりやすい例が、「家路」と題されることもある第2楽章の5音(ペンタトニック)音階です。
もっとも、この音階は日本人にとってはきわめて自然な音階なので「新しさ」よりは「懐かしさ」を感じてしまい、それ故にこの作品が日本人に受け入れられる要因にもなっているのですが、ヨーロッパの人であるドヴォルザークにとってはまさに新鮮な「アメリカ的語法」だったのです。
とは言え、調べてみると、スコットランドやボヘミアの民謡にはこの音階を使用しているものもあるので、全く「非ヨーロッパ的」なものではなかったようです。
しかし、それ以上にドヴォルザークを驚かしたのは大都市ニューヨークの巨大なエネルギーと近代文明の激しさでした。そして、それは驚きが戸惑いとなり、ボヘミアへの強い郷愁へとつながっていくのでした。
どれほど新しい「音楽的語法」であってもそれは何処まで行っても「手段」にしか過ぎません。
おそらく、この作品が多くの人に受け容れられる背景には、そう言うアメリカ体験の中でわき上がってきた驚きや戸惑い、そして故郷ボヘミアへの郷愁のようなものが、そう言う新しい音楽語法によって語られているからです。
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」という言葉に通りに、ボヘミア国民楽派としてのドヴォルザークとアメリカ的な語法が結びついて一体化したところにこの作品の一番の魅力があるのです。
ですから、この作品は全てがアメリカ的なもので固められているのではなくて、まるで遠い新世界から故郷ボヘミアを懐かしむような場面あるのです。
その典型的な例が、第3楽章のスケルツォのトリオの部分でしょう。それは明らかにボヘミアの冒頭音楽(レントラー)を思い出させます。
そして、そこまで明確なものではなくても、いわゆるボヘミア的な情念が作品全体に散りばめられているのを感じとることは容易です。
初演は1893年、ドヴォルザークのアメリカでの第一作として広範な注目を集め、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルの演奏で空前の大成功を収めました。
多くのアメリカ人は、ヨーロッパの高名な作曲家であるドヴォルザークがどのような作品を発表してくれるのか多大なる興味を持って待ちかまえていました。そして、演奏された音楽は彼の期待を大きく上回るものだったのです。
それは、アメリカが期待していたアメリカの国民主義的な音楽であるだけでなく、彼らにとっては新鮮で耳新しく感じられたボヘミア的な要素がさらに大きな喜びを与えたのです。
そして、この成功は彼を音楽院の院長として招いたサーバー夫人の面目をも施すものとなり、2年契約だったアメリカ生活をさらに延長させる事につながっていくのでした。
凍てつく家路
ロジンスキーと言っても今ではピンと来る人は少ないでしょう。
もしかしたら、トスカニーニのアシスタントとしてNBC交響楽団のトレーニングに尽力したという文脈で名前を聞いたことがあるかもしれません。
もしくは、歴史的録音に興味のある人は、レオポルド・ウラッハをサポートしてモーツァルトのクラリネット協奏曲を録音したと言うことでかろうじて記憶にとどめているかもしれません。
しかし、その経歴を見てみると、ロサンジェルス・フィル(1929~1933)・クリーヴランド管弦楽団(1933~1943)・ニューヨークフィル(1943~1947)・シカゴ交響楽団(1947)の常任指揮者や音楽監督を歴任しています。トスカニーニと知り合ってからは彼の引きもあったのかもしれませんが、それでも、凡庸な指揮者であれば、例え強力な引きがあったとしても20年以上もこの世界のトップで居続けることなどできるはずがありません。彼が意に反してニューヨークやシカゴでのポストを失ったのは能力のゆえではなくて、あまりにも厳しいトレーニングに対して楽団員が反発したことや、芸術面での完璧を求めて赤字を気にしなかった姿勢に対してマネージメント側が音を上げたことが原因でした。
ただし、それを幸いと呼ぶには躊躇いを感じますが、シカゴでのポストを失って失意の中でヨーロッパに去ったロジンスキーに声をかけるレーベルがあらわれました。それが、戦争の痛手から未だ立ち直れ切れていないヨーロッパで積極的に録音活動を始めたアメリカの新興レーベル「ウェストミンスター」でした。
ウェストミンスターレーベルは、当初は室内楽を中心に録音活動を始め、その分野で一定の成果を上げると、活動の幅を次第にオーケストラの分野へと広げていきます。その時に声をかけたのが、アメリカを追われたロジンスキーでした。
その能力には絶対的な信頼がおける指揮者がヨーロッパで不遇を託っていたのですから、ウェストミンスターレーベルにしてみればこれ以上の幸いはなかったでしょう。
そして、その幸いは聞き手である私たちにおいても同様で、録音セッションに充分に時間をかけることで、この偏屈男の信じた音楽を良質な演奏と録音で享受できることになったわけです。
それでは、ロジンスキーが実現しようとした音楽とは何だったのでしょうか。
それは、彼が残した録音の中でも最良のものの一つと言われるこの「新世界より」を聞けばすぐに了解できます。
ロジンスキーはこの作品を通俗名曲という親しみやすさの中に閉じこめるようなことはしていません。それは、あまりにも有名な第2楽章を聞くだけで充分です。小学校の下校放送にもよく使われる音楽ですが(^^;、ほのぼのとした暖かさや郷愁などはどこを探しても見つかりません。それどころか、ここにあるのはそう言うノスタルジックな雰囲気とは全く正反対の、言ってみれば凍てつくような大地を踏みしめて帰る家路の情景です。
つまりは、世間一般が「こんなもんだろう!」と勝手に決めつけたイメージで安直に作品を構成することを潔しとせず、自分なりにスコアから読み取ったイメージを丁寧に再現しようとしたのです。当然のことながら、家路を凍てつくような大地のイメージとして再現することが絶対に正しいわけではないでしょうが、それでも、安直に常識的なイメージに寄りかかって演奏される音楽よりははるかに説得力があります。
また、弦楽器主体で後は適当に雰囲気で演奏するような安直さは絶対に許せなかったようで、管楽器などの細かい動きも全て聞こえるようにバランスをとりながら一人一人の奏者に細かい指示を出していたこともうかがえます。
なるほど、こういう感じで管楽器奏者が締め上げられると、その当時としては「我慢」できなくなったのもうなずけます。そう言う意味では、彼は少しばかり速く生まれすぎたのかもしれません。少なくともこのような録音を聞かされると、アメリカのオケとの軋轢はそう言うロジンスキーのスタンスが受け入れがたかったために起こったのはないかと思わざるを得ません。
それに対して、ここでのオケ(ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)はロジンスキーに対して協力的です。
その背景には、このオケが「若かった」事が大きな要因となっているのでしょう。1946年にビーチャムによって創設されたオケですから、新興レーベルだったウェストミンスターも使いやすかったのでしょうが、その事が指揮者のロジンスキーにとっても幸いしたようです。
この若いオケはロジンスキーの指示に全力で応えようとしていますし、残された録音風景などを聞くと、懐に拳銃をしのばせてリハーサルに臨んだという過去など信じがたいほどにロジンスキーものびやかに音楽を楽しんでいるように聞こえます。
シカゴを去ってからのロジンスキーはそれまでの無理が祟ったのか健康を害してしまい、そのために、ウェストミンスターでの録音も1956年までの短い期間で終わりをむかえます。しかし、短かったとは言え、その最後で己の信じる音楽を十分に納得できるか形で残すことができたのですから、波瀾万丈の人生をくりながらも最後は幸せな男だったと言えるのではないでしょうか。