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バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番
Vn.メニューイン 1934年5月23日録音をダウンロード
- バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調 BWV1004 「Allemande」
- バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調 BWV1004 「Courante」
- バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調 BWV1004 「Sarabande」
- バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調 BWV1004 「Gigue」
- バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調 BWV1004 「Chaconne」
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータの概要
バッハの時代にはこのような無伴奏のヴァイオリン曲というのは人気があったようで、とうていアマチュアの手で演奏できるとは思えないようなこの作品の写譜稿がずいぶんと残されています。ところが、古典派以降になるとこの形式はパッタリと流行らなくなり、20世紀に入ってからのイザイやバルトークを待たなければなりません。
バッハがこれらの作品をいつ頃、何のために作曲したのかはよく分かっていません。一部には1720年に作曲されたと書いているサイトもありますが、それはバッハが(おそらくは)自分の演奏用のために浄書した楽譜に記されているだけであって、必ずしもその年に作曲されたわけではありません。さらに言えば、これらの6つの作品がはたして同じ目的の下にまとめて作曲されたのかどうかも不確かです。
しかし、その様な音楽学的な細かいことは脇に置くとしても、これらの作品を通して聞いてみると一つの完結した世界が見えてくるのはユング君だけではないでしょう。それは、どちらかと言えば形式がきちんと決まったソナタと自由に振る舞えるパルティータをセットととらえることで、明確な対比の世界が築かれていることに気づかされるからです。そして、そのパルティータにおいても、「アルマンド」−「クーラント」−「サラバンド」−「ジーグ」という定型様式から少しずつ外れていくことで、その自由度をよりいっそう際だたせています。そして、パルティータにおいて最も自由に振る舞っている第3番では、この上もなく厳格で堂々としたフーガがソナタの中で屹立しています。
この作品は演奏する側にとってはとんでもなく難しい作品だと言われています。しかし、その難しさは「技巧」をひけらかすための難しさではありません。
パルティータ2番の有名な「シャコンヌ」やソナタ3番の「フーガ」では4声の重音奏法が求められますが、それは決して「名人芸」を披露するためのものではありません。その意味では、後世のパガニーニの「難しさ」とは次元が異なります。
バッハの難しさは、あくまでも彼がヴァイオリン一挺で描き尽くそうとした世界を構築するために必要とした「技巧」に由来しています。ですから、パガニーニの作品ならば指だけはよく回るヴァイオリニストでも演奏できますが、バッハの場合にはよく回る指だけではどうしようもありません。それ以上に必要なのは、それらの技巧を駆使して描ききろうとしたバッハの世界を理解する「知性」だからです。
その意味では、ヴァイオリニストにとって、幼い頃からひたすら演奏テクニックを鍛え上げてきた「演奏マシーン」から、真に人の心の琴線に触れる音楽が演奏できる「演奏家」へとステップアップしていくために、一度はこえなければいけない関門だといえます。
ソナタ第1番ト短調 BWV1001
第3楽章の「シチリアーノ」以外は全てト短調という珍しい調性を持っています。この異例ともいえる調整の関係についてはいろいろと説明している本もあるのですが(ドリア旋法がどうたら、リディア旋法がかんたら・・・)、そう言う楽典的な事には弱いユング君にはよくわからんのです。(^^;しかし、この偉大な6曲の冒頭を飾るに相応しい作品であることは間違いありません。
1. Adagio
2. Fuga. Allegro
3. Siciliano
4. Presto
パルティータ第1番ロ短調 BWV1002
4つの全ての舞曲の後半にそれぞれ、ドゥーブルと呼ばれる変奏が置かれているために、一見すると8楽章構成のように見えますが、本質的に以下の4楽章構成です。そのために、パルティータの最後は一般的には「ブーレ」ではなくて「ジーグ」なのですが、それではその後にドゥーブルをおくとすわりが悪いので変更したのだろうと推測されています。
1. Allemande - Double
2. Courante - Double. Presto
3. Sarabande - Double
4. Tempo di Bourree - Double
ソナタ第2番イ短調 BWV1003
第2楽章の「フーガ」は289小節にも及ぶ長大なものですが、至る所にあらわれるオクターブの跳躍は音楽に躍動感と起伏感を与えています。また第3楽章の「アンダンテ」では、1本のヴァイオリンで、旋律と通奏低音の二声を弾くというものですが、音量を調節してメロディラインを際だたせるという高度な制御が要求されるようです。
1. Grave
2. Fuga
3. Andante
4. Allegro
パルティータ第2番ニ短調 BWV1004
シャコンヌとは、「上声は変わっていくのに、バスだけは同じ楽句に固執し執拗に反復するものである」と説明されています。上声部がどんなに変奏を展開しても、低声部で執拗に繰り返される主題が音楽全体の雰囲気を規定します。
しかし、その低声部での主題を聞き手が意識することはほとんどありません。冒頭にその主題が提示されますが、その後は展開される変奏の和声の最低音として姿をくらましてしまうからです。
ところが、姿をくらましても、それが和声進行のパターンを根底で支配するのですから作品全体に与える影響力は絶大であり絶対的です。
聞き手には移り変わっていく上声部のメロディラインしか意識には残らないでしょうが、執拗に繰り返される低声部の主題が音楽の支配権を握っています。
ですから、聞き手にはこの低声部の主題がそれとは明確に意識できない代物であっても、演奏する側はそのことを明確に意識して演奏する必要があります。
つまりは、スコアに書いてある音符をそれなりに音にするだけでは音楽にはならないのです。
そのことは、何もこの作品に限ったことではありませんが、シャコンヌはとりわけ演奏者サイドにその手の難しさを要求するようです。
1. Allemande
2. Courante
3. Sarabende
4. Gigue
5. Chaconne
ソナタ第3番ハ長調 BWV1005
ソナタ全3曲中で最も壮大な音楽がこれです。とくに第2楽章のフーガは354小節からなる長大なものであり、それはバッハが書いたフーガの中で最大のものだと言われています。フーガの主題は古いコラール「来たれ、聖霊よ、主なる神よ」によるものだそうです。
1. Adagio
2. Fuga alla breve
3. Largo
4. Allegro assai
パルティータ第3番ホ長調 BWV1006
組曲の一般的な配列からは大きく逸脱して最も自由に振る舞っています。そのために、全6曲の中では最も明るく、最も華麗な音楽になっています。また、全6曲の中では唯一アマチュアでも演奏できそうな作品であるために昔から高い人気を持っていました。特に、第3楽章の「ガヴォット」は、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」などという厄介な名前など知らない人でもどこかで一度は耳にしたことがある有名な旋律です。
1. Preludio
2. Loure
3. Gavotte en Rondeau
4. Menuet I/II
5. Bourree
6. Gigue
やんちゃ坊主
今さらどうしたんだ?と訝られるような古い録音を持ち出してきてしまいました。
実は理由があります。
とある雑誌で坂本龍一氏がバッハのこの作品を取り上げていて、一番好きな録音としてメニューインのものを挙げていたのです。
坂本龍一ともあろうものが何というチョイスだと思いました。
1956年から57年にかけて録音されたメニューインの無伴奏ヴァイオリンのソナタとパルティータの演奏は、悪くはないですが、同時代の他の録音と比べると自己主張の乏しい演奏だという思いがあったからです。
しかし、不思議なこともあるものだと、その雑誌をもう一度よく見てみると何と1934年録音とあるではないですか。
恥ずかしながら、メニューインには若い時代の無伴奏の録音があることは知っていましたが、聞いたことがありませんでした。しかし、あの坂本龍一が推しているなら聞くしかないと思って、「確かどこかにあったはずだ」とCDの棚を探し回ることになりました。残念ながら全曲録音したものは手元にないことが分かりましたが、シャコンヌを含むパルティータの2番の録音だけは奥の方から出てきました。
1934年の録音ですから、この時メニューインはまだ18歳です!!
バッハの無伴奏ヴァイオリンのソナタとパルティータと言えば、功成り名を遂げたヴァイオリニストが、己の演奏家人生の集大成として録音するものでした。楽器は異なりますが、チェロのロストロポーヴィチがバッハの無伴奏組曲を70歳を前にするまで全曲録音しなかった事は有名な話です。
それが何と、18歳です。
調べてみると、この全曲録音は1934年から36年にかけて録音されていますから、18歳から20歳にかけての録音だと言うことになります。
確かにメニューインは「神童」とよばれたヴァイオリニストでした。7歳でサンフランシスコ交響楽団と共演して初舞台を踏んだという早熟の天才であったことは事実です。しかし、いくら何でも早すぎるだろうという思いは拭いきれません。
でも、坂本龍一が推しているのです、聞いてみるしかありません。(^^;
そして、聞いてみて、坂本龍一が何故にこの録音を推したのかがすぐに理解できました。
何という勢いに満ちた好き勝手な演奏でしょう。50年代の自己主張の弱い平均的な演奏と比べると、これが同一人物の手になるものかと俄には信じがたくなります。
なるほど、坂本龍一の目に狂いはありません。
この演奏がすっかり気に入ったので、早速残りの録音も入手して聞いてみました。そして、パルティータ2番以外の録音もまた、驚くほどに奔放な演奏であることを確認しました。
疑いもなくメニューインは早熟の天才でした。そして、その才能に彼は一片の疑いも持っていませんでした。幸いなことに、彼のもてる才能とそれに対する自信は見事なまでに釣り合っていました。過信もなければ不必要な謙遜もなく、ひたすら己の信じるバッハを何の疑いも衒いもなく演奏しきっています。
この録音を聞いていて、私の脳裏に浮かんだのがヨー・ヨー・マが20代で録音した無伴奏チェロ組曲の演奏でした。
ロストロが「私にはまだ早すぎる」などと言い、他の大物チェリストも眉間にしわを寄せてうんうんと呻りながら録音していたものを、彼は何の疑問も衒いもなく軽々とこのチェロの聖典を弾ききりました。そのあまりの軽さと伸びやかさに多くの人が驚き、「こんなに軽々と演奏されたのではたまったものではない」と正直に言った評論家もいたほどです。しかし、世の評論家の多くは「精神的深みに欠ける」という常套句でその録音を切って捨てました。
しかし、偉い先生たちに切って捨てられようと個人的には一番好きな録音でしたし、今もその思いは変わりません。
それに何と言っても録音が良かったです。あれほどチェロの伸びやかな響きをすくい取った録音はそうあるものではありません。
しかし、そう言うヨー・ヨーマの録音以上にこのメニューインの録音はエキサイティングでした。
ヨー・ヨー・マはなんだかんだと言っても秀才です。確かに、己の才能を信じきる事のできる若さゆえの演奏ですが、基本的に音楽が上品です。
それと比べれば、このメニューインの演奏はまさにやんちゃ坊主そのものです。ですから、欠点をあげつらえばいくらでも数え上げることができるでしょうが、そう言う雑な部分までもが見事に魅力に転化しています。そして、そう言う嘘みたいな事が現実になったのは、メニューインを持ってしてもこの時代の録音のみでしょう。
こうなると、この時代の彼の録音はもう一度総点検してみる必要があるようです。また一つ宿題が増えました。