クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68


マルケヴィッチ指揮 シンフォニー・オブ・ジ・エア 1956年12月録音をダウンロード

  1. ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第1楽章」
  2. ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第2楽章」
  3. ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第3楽章」
  4. ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68 「第4楽章」

ベートーヴェンの影を乗り越えて



ブラームスにとって交響曲を作曲するということは、ベートーヴェンの影を乗り越えることを意味していました。それだけに、この第1番の完成までには大変な時間を要しています。
彼がこの作品に着手してから完成までに要した20年の歳月は、言葉を変えればベートーヴェンの影がいかに大きかったかを示しています。そうして完成したこの第1交響曲は、古典的なたたずまいをみせながら、その内容においては疑いもなく新しい時代の音楽となっています。


この交響曲は、初演のときから第4楽章のテーマが、ベートーヴェンの第9と似通っていることが指摘されていました。それに対して、ブラームスは、「そんなことは、聞けば豚でも分かる!」と言って、きわめて不機嫌だったようです。

確かにこの作品には色濃くベートーヴェンの姿が影を落としています。最終楽章の音楽の流れなんかも第9とそっくりです。姿・形も古典派の交響曲によく似ています。
しかし、ここに聞ける音楽は疑いもなくロマン派の音楽そのものです。

彼がここで問題にしているのは一人の人間です。人類や神のような大きな問題ではなく、個人に属するレベルでの人間の問題です。
音楽はもはや神をたたるものでなく、人類の偉大さをたたえるものでもなく、一人の人間を見つめるものへと変化していった時代の交響曲です。

しかし、この作品好き嫌いが多いようですね。
嫌いだと言う人は、この異常に気合の入った、力みかえったような音楽が鬱陶しく感じるようです。
好きだと言う人は、この同じ音楽に、青春と言うものがもつ、ある種思いつめたような緊張感に魅力を感じるようです。

私は若いときは大好きでした。
そして、もはや若いとはいえなくなった昨今は、正直言って少し鬱陶しく感じてきています。(^^;;
かつて、吉田秀和氏が、力みかえった青春の澱のようなものを感じると書いていて、大変な反発を感じたものですが、最近はこの言葉に幾ばくかの共感を感じます。
それだけ年をとったということでしょうか。

なんだか、リトマス試験紙みたいな音楽です。 い人でも、この作品の冒頭を知らない人はないでしょう。


明晰さへの指向


昨年の8月だったと記憶しているのですが、NHKのBSで「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人演奏家の命を救った男」というドキュメンタリーが放送されました。その後、菅野冬樹氏による「戦火のマエストロ 近衛秀麿」という書籍も図書館で借りてきて、最近読んでみました。
近衛が第二次大戦下のヨーロッパでどのような活動をしていたのかを実際に裏付ける資料はほとんど存在せず、基本的には状況証拠と数少ない証言をもとに組み立てたものなので、結論から言えば真相は「藪の中」と言うレベルを出るものでないことは残念でした。願わくば、これが一つのきっかけとなって新たな資料が発見されて、戦時下における近衛の足跡がより明らかになればと思います。

ただ、ここで触れたいのは近衛のその様な活動についてではありません。彼が初めてヨーロッパを訪問したときの様子が「戦火のマエストロ」の中でかなり詳しく紹介されていて、それが非常に興味深かったのです。

その記述によると、彼が初めてヨーロッパを訪れたときに、何処に腰を据えて音楽を学ぶのかについてはかなり慎重だったようなのです。
近衛はほとんど独学でクラシック音楽を学んだ人でしたし、さらに言えば、当時の日本ではまともなオーケストラは存在しませんでした。ですから、本当のオケというのはどのような響きなのかは想像するしかなかったのですから、この選択については慎重にならざるを得なかったのです。

彼はまずはフランスに上陸して、可能な限りのコンサートに足を運んでいます。こういう事が可能だったのも、近衛家というバックがあったからですが、それでも本人に才能と意欲がなければそんなバックなどがあっても何の訳にもたたないのですから、やはり近衛は偉かったと言わざるを得ません。
そして、近衛はフランスで聴いた全てのコンサートに失望させられたと正直に述べています。
そこで聞いた音楽は、彼が日本において夢見ていた音楽とは全く異なるものであり、そのどれもこれもが軽くて薄いものに思えたのです。まともなクラシック音楽を一度も聞いたことがない日本人が自分の感性を信じて「駄目出し」を出来るというのはたしたものです。
褒めすぎかもしれませんが、そこにこそ近衛の「真の貴族性」みたいなものを感じます。

そして、彼はフランスにはきっぱりと見切りをつけてドイツへと向かうのですが、そこで彼は日本で夢見ていた音楽と出会うことになるのです。
今、手元に書籍がないので詳しく引用することが出来ないのですが、この実地の経験をもとに彼は勉学の場をドイツに決め、さらには、その間に近衛家のバックもフルに活用しながら人脈も広げ、ついには日本人として初めてベルリンフィルの指揮台に立つようになるのです。

この下りを読んだときは、「へーっ、この頃のフランスとドイツではそんなにも違いがあったのかね」と思ったくらいなのですが、その後、一連のマルケヴィッチの録音とであう中で、何故かこの近衛の事が思い出されてしまったのです。

それは一言で言えば、オーケストラの響きに対するフランスとドイツの好みと違い、もっと大げさに言えば哲学の違いみたいなものについて考えさせられたのです。

ドイツのオケというものは、フルトヴェングラーに代表されるように、楽器の集合体ではなく、まるでオーケストラという一つの楽器であるかのように有機的に響きます。豊かな低声部を支えとして、さらには内声部も充実した重厚な響きは、クラシック音楽などというものを聞いたことがないような人にたいしても圧倒的な威力を発揮します。
そして、そう言う圧倒的な響きでもってフルトヴェングラーのようなドラマ性に満ちた音楽が展開されれば、最初から聞く耳を塞いでしまっている人でない限りは魅了されないはずはないのです。

誤解を恐れずに言い切ってしまえば、日本でかくもフルトヴェングラーが受容されて高く評価されてきた背景には、その様な「分かりやすさ」があったからです。

それに対して、フランスの哲学では、オーケストラは不可侵の「個」をもった一人ひとりのプレーヤーの集合体であり続けるようなのです。
ですから、オーケストラがまるで一つの有機体であるかのように個々のプレーヤーを飲み込んでしまうことを本能的に拒否するように聞こえます。
その結果として、個々の楽器は縦のラインに統合された和声に飲み込まれてしまうことを可能な限り拒否し続けるがために、響きは薄くなり拡散していかざるを得ません。

しかし、その事の見返りとして、ドイツでは重い響きに塗り込まれてしまいがちな複雑な内部構造が、フランスのオケからは手に取るように聞き取ることが出来ます。そして、その様な内部の精緻な構造を聞き取ることに喜びを感じるのは、官能的な響きの喜びに身を浸すよりははるかに難しいのです。
これもまた誤解を恐れずに言い切ってしまえば、近衛がフランスで聞いた音楽はそれほど酷いものではなかったはずです。
今の訓練された耳を持ったクラシック音楽ファンならば、それは簡単に見極めがついたのではないかと思います。しかし、こんな書き方は恐れ多いとは思うのですが、それと同じ事を当時の近衛に期待するのは酷だったと思います。

そう言えば、マルケヴィッチは作品のテンポ設定を考えるための大前提として、その作品に含まれるもっとも短い音価の音符が明瞭に聞き取れることが必須条件だと語っていました。つまり、作品を演奏するときには、どのような小さな音符であっても蔑ろにしてはいけないと言うことを宣言したわけです。
そして、マルケヴィッチの凄いところは、その様な宣言を一つの理想論として掲げたのではなくて、まさに実際にの演奏においても徹底的に要求し続けたのです。ですから、彼のリハーサルは過酷を極め、結果として一つのポストに長く座り続けることが出来ない人だったのです。

彼のその様なスタンスは、どの作品においても貫かれています。
ベルリオーズの幻想交響曲などは言うまでもなく、ブラームスやベートーベンのようなバリバリのドイツ・オーストリア系の音楽であっても、そしてチャイコフスキーの「悲愴」やリムスキー・コルサコフの「シェエラザード」のようなロシア系の音楽であっても同様です。

マルケヴィッチの方法論はどの作品においても徹底されていて、まさに作曲家としての目をもって作品を徹底的に分析し、その構造を誰の耳のも分かるように提示します。そして、その様な音楽の作り方は、ドラマ性に満ちたフルトヴェングラー流の音楽の作り方や、カラヤンの流線型の美学のような「分かりやすさ」とは無縁のところに存在します。

ただし、だからといって、私はマルケヴィッチをフルトヴェングラーやカラヤンの上に置こうとは思いません。
ただ、気をつけたいのは、マルケヴィッチの音楽に対して、その様な分かりやすさが希薄だという理由で「駄目出し」をしてしまうことに注意しないといけないと言うことを言っているのです。
そして、その事は、マルケヴィッチ以外のフランスの音楽家の演奏についても一般化できそうな気がします。例えば、私がもっと賢ければ、アンセルメの演奏をあれほどたくさん取り上げた時に気づいておくべきだったのです。

しかし、神様はその「鈍」をマルケヴィッチという存在によって帳消しにしてくれました。
感謝あるのみです。