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ベートーベン:弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 OP.18-6
ヴェーグ弦楽四重奏団:1952年録音をダウンロード
- ベートーベン:弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 OP.18-6 「第1楽章」
- ベートーベン:弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 OP.18-6 「第2楽章」
- ベートーベン:弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 OP.18-6 「第3楽章」
- ベートーベン:弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 OP.18-6 「第4楽章」
ベートーベンの心の内面をたどる
ベートーベンの創作時期を前期・中期・後期と分けて考えるのは一般的です。ハイドンやモーツァルトが築き上げた「高み」からスタートして、その「高み」の継承者として創作活動をスタートさせた「前期」、そして、その「高み」を上り詰めた極点において真にベートーベンらしい己の音楽を語り始めた「中期」、やがて語り尽くすべき己を全て出力しきったかのような消耗感を克服し、古典派のスタイルの中では誰も想像もしなかったような深い瞑想と幻想性にあふれる世界に分け入った「後期」という区分です。
ベートーベンという人はあらゆるジャンルの音楽を書いた人ですが、交響曲とピアノソナタ、そして弦楽四重奏はその生涯を通じて書き続けました。とりわけ、弦楽四重奏というジャンルは第10番「ハープ」と第11番「セリオーソ」が中期から後期への過渡的な性格を持っていることをのぞけば、その他の作品は上で述べたそれぞれの創作時期に截然と分類することができます。さらに、弦楽四重奏というのは最も「聞き手」を意識しないですむという性格を持っていますから、それぞれの創作時期を特徴づける性格が明確に刻印されています。
そういう意味では、彼がその生涯において書き残した16曲の弦楽四重奏曲を聞き通すと言うことは、ベートーベンという稀代の天才の一番奥深いところにある心の内面をたどることに他なりません。
<前期の6作品>
弦楽四重奏曲という形式を完成させたのは言うまでもなくハイドンでありモーツァルトです。彼らは、単なるディヴェルティメント的な性格しか持っていなかったこの形式を、個人の心の内面を語る最もシリアスな音楽形式へと高めていきました。ベートーベンがこの形式の創作のスタートラインとしたのは、このハイドンやモーツァルトが到達した終着点だったのです。
ベートーベンがこのジャンルの作品を初めて世に問うたのは30才になろうとする頃です。この時までに、彼は室内楽の分野では多くのピアノ・トリオと弦楽三重奏曲、三つのヴァイオリン・ソナタ、二つのチェロ・ソナタ、さらに様々な楽器の組み合わせによる四重奏や五重奏を書いています。ですから、作品番号18として6曲がまとめられている最初の弦楽四重奏曲は、その様な作曲家としての営為の成果を問うものとして、まさに「満を持して」発表されました。
弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調 OP.18-1
全6曲の中ではおそらく2番目に創作されたものだと言われています。しかし、第1楽章の堂々たる音楽を聞けば、何故にベートーベンがこの作品を「第1番」とナンバリングしたのかが分かります。
最初の2小節で提示される動機を材料にして緊密に全体をくみ上げていく手法は後のベートーベンのすすみ行く方向性をはっきりと暗示しています。また、深い情緒をたたえた第2楽章も「ぼくはロメオとジュリエットの墓場の場面を考えていた」と述べたように、若きベートーベンの憂愁をうかがわせるものであり、まさにこのジャンルのスタートを飾るに相応しい作品に仕上がっています。
弦楽四重奏曲第2番 ト長調 OP.18-2「挨拶」
全6曲の中では3番目に完成されたものだと言われています。第1楽章の主題がまるで「挨拶」をかわしているかのように聞こえるために、それが作品のニックネームとなっています。
弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 OP.18-3
ベートーベンが完成させた最初の弦楽四重奏曲だと言われています。全6曲の中では最も明るさと幸福感に満ちた作品ですが、それは、ウィーンに出てきて音楽家としての新たなスタートを切った青年ベートーベンの希望に満ちた心象風景の反映だろうと言われています。
弦楽四重奏曲第4番 ハ短調 OP.18-4
作品番号18の6曲の中では最も最後に完成された作品だと言われています。そして、最後だからと言うわけではないのですが、疑いもなくこの全6曲の中では最も高い完成度を誇っているのがこの作品です。
モーツァルトにとってト短調というのが特別な意味を持った調性だったように、ベートーベンにとってはハ短調というのは特別なものでした。ベートーベンがこの調性を採用するときは音楽は劇的な性格の中に悲劇的な美しさを内包するものとなりました。そして、おそらくはこの調性に彼が求めていたものを初めてしっかりとした形で実現したのがこの作品だったと言えます。
弦楽四重奏曲第5番 イ長調 OP.18-5
全6曲の中では4番目に作曲されたものですが、聞けば分かるようにモーツァルトの音楽を連想させるような音楽で、とりわけ第2楽章のメヌエットはまるでモーツァルト聴いているかのような錯覚に陥ります。そういう意味では最もベートーベンらしくない作品なのですが、聞いていて実に楽しい気分させてくれると言うことでは悪くない作品です。
弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 OP.18-6
全6曲の中では5番目の作品というのが痛切ですが、番号通り最後の作品と見る人もいます。全体としては初期作品に共通する「明るさ」が全曲を支配しているのですが、第4楽章の冒頭に「ラ・マリンコニア(メランコリー)」と題された長大な序奏がつくのが特徴です。
優雅さと品の良さ
シャーンドル・ヴェーグと言う名前が始めて私の視野に入ってきたのはカメラータ・ザルツブルクの指揮者としてでした。とりわけ、そのコンビによるモーツァルトのディヴェルティメント集の録音は、今も、心がいささか窮屈になってきたときには聞いてみたくなる演奏です。
決して急ぐことなく、ゆったりと、そしてある種の優雅さを失うことのない演奏を聴くと鬱屈していた心も解きほぐされて、楽に呼吸が出来るようになるのです。
それから、同じくモーツァルトの初期の交響曲も、このコンビでよく聞きました。
この初期交響曲の録音はディヴェルティメントほどには話題にはならなかったのですが、録音そのものが決して多くない作品なので、これもまたよく聞いた録音でした。
ですから、私にとってのシャーンドル・ヴェーグのイメージは、才能溢れる若き学生たちから慕われる老巨匠というものでした。
ただし、若い頃は何をしていたのかはあまりよく分からないという存在でもありました。
シャーンドル・ヴェーグが現役のソリストとしてバリバリ活躍していたホームグラウンドは室内楽の世界、特に力を注いでいたのがカルテットの世界でした。
彼は1935年にハンガリー弦楽四重奏団を結成してその第1ヴァイオリンの席に座るのですが、やがてその席をゾルターン・セーケイに譲り、自らはセカンドに回ります。ですから、このハンガリー四重奏団はセーケイの名前と結びつけて記憶されることになります。
このハンガリー四重奏団が戦争の影響で活動の本拠をオランダに移すと、ヴェーグはハンガリーに残ることを選んで、新しく自らの名を冠したヴェーグ四重奏団を結成します。そして、戦後ハンガリーから亡命したあとも彼の活動の拠点はこの四重奏団であり続け、1970年代の半ば頃までその演奏活動が続けられました。
そして、その活動に一つの区切りをつけたあとに引き受けたのがカメラータ・ザルツブルクの指揮者だったのです。
ヴェーグ四重奏団はその実力が高く評価されながら、同時代の他の弦楽四重奏団と較べると認知度が今ひとつ低いように感じます。ですから、指揮者としてのヴェーグしか知らない人も少なくないように見えます。
調べてみると、ベートーベンの弦楽四重奏曲の全曲録音を50年代と70年代の2回にわたって行っています。ベートーベンの弦楽四重奏曲ともなれば1回全曲録音を行うだけでも大変なものなのですから、それを2回も行っているというのは、彼らがいかに高く評価されていたかの証しだと言えます。
ただし、その録音を聞いていると、結果としての認知度が何故に低いのかも分かるような気がします。
一言で言えば欲がないのです。
音楽は何処まで行っても優雅で品がいいのですが、売れるがための押し出しと言うことに関してはいささかインパクトが低いのも事実です。
やはり、芸の世界というのは前に出てなんぼ、と言う面は否定できません。カラヤンやバーンスタインのように、そう言う押し出しに関しても抜かりのない人は記憶に残りやすいのですが、ヴェーグという人はそう言うタイプの人間からは最も遠い位置にいたのかもしれません。
この52年に集中的に録音された演奏を聴くと、そこにあるのは昔も今も、そして未来に向かってもこうやって私たちはベートーベンを演奏していくんだという思いが伝わってきます。
彼がかつて在籍したハンガリー四重奏団も同じ時期に全曲録音をしているのですが、そこでは「ベートーベンのスコアをもう一度徹底的に洗い出し、その研究の成果を現実の演奏として世に問う」という「売り」がありました。
同じく、ブダペスト弦楽四重奏団も全く同じ時期に録音をしているのですが、そこでも、この時代を席巻し始めた「新即物主義」に基づいたベートーベンの再構築という「売り」がありました。
しかし、ヴェーグによるベートーベンにはその様な目新しい「売り」はなく、知的に音楽を作り上げながらも、その音楽には古き良き時代の優雅さと品の良さが失われることはありません。確かに、楽譜を蔑ろにするような演奏でないことは事実なのですが、だからといって即物的な乾いた演奏に陥ることは慎重に避けられています。
そこでヴェーグが一番大切にしているのは、ベートーベンという男の内面に渦巻いていたであろう感情であり、そう言う主情的な側面により強く焦点を当てた演奏なのです。
その意味では古いと言えば古いタイプの演奏なのでしょうが、そう言う演奏に居心地の良さを感じるのも年を重ねたせいなのかもしれません。