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ベートーベン:弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 OP.127
ヴェーグ弦楽四重奏団:1952年録音をダウンロード
- ベートーベン:弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 OP.127「第1楽章」
- ベートーベン:弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 OP.127「第2楽章」
- ベートーベン:弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 OP.127「第3楽章」
- ベートーベン:弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 OP.127「第4楽章」
後期の孤高の作品
己の中にたぎる「何者」かを吐き出し尽くしたベートーベンは、その後深刻なスランプに陥ります。そこへ最後の失恋や弟の死と残された子どもの世話という私生活上のトラブル、さらには、ナポレオン失脚後の反動化という社会情勢なども相まってめぼしい作品をほとんど生み出せない年月が続きます。
その様な中で、構築するベートーベンではなくて心の中の叙情を素直に歌い上げようとするロマン的なベートーベンが顔を出すようになります。やがて、その傾向はフーガ形式を積極的に導入して、深い瞑想に裏打ちされたファンタスティックな作品が次々と生み出されていくようになり、ベートーベンの最晩年を彩ることになります。これらの作品群を世間では後期の作品からも抽出して「孤高期の作品」と呼ぶことがあります。
「ハンマー・クラヴィーア」以降、このような方向性に活路を見いだしたベートーベンは、偉大な3つのピアノ・ソナタを完成させ、さらには「ミサ・ソレムニス」「交響曲第9番」「ディアベリ変奏曲」などを完成させた後は、彼の創作力の全てを弦楽四重奏曲の分野に注ぎ込むことになります。
そうして完成された最晩年の弦楽四重奏曲は人類の至宝といっていいほどの輝きをはなっています。そこでは、人間の内面に宿る最も深い感情が最も美しく純粋な形で歌い上げられています。
弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 OP.127
「ミサ・ソレムニス」や「第9交響曲」が作曲される中で生み出された作品です。形式は古典的な通常の4楽章構成で何の変哲もないものですが、そこで歌われる音楽からは「構築するベートーベン」は全く姿を消しています。
変わって登場するのは幻想性です。その事は冒頭で響く7つの音で構成される柔らかな和音の響きを聞けば誰もが納得できます。これを「ガツン」と弾くようなカルテットはアホウです。
なお、この作品と作品番号130と132の3作はロシアの貴族だったガリツィン侯爵の依頼で書かれたために「ガリツィン四重奏曲」と呼ばれることもあります。
弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 OP.130
番号では13番ですが、「ガリツィン四重奏曲」の中では一番最後に作曲されたものです。ベートーベンはこの連作の四重奏曲において最初は4楽章、次の15番では5楽章、そして最後のこの13番では6楽章というように一つずつ楽章を増やしています。特にこの作品では最終楽章に長大なフーガを配置していましたので、その作品規模は非常に大きなものとなっていました。しかし、いくら何でもこれでは楽譜は売れないだろう!という進言もあり、最終的にはこのフーガは別作品として出版され、それに変わるものとして明るくて親しみやすいアレグロ楽章が差し替えられました。ただし、最近ではベートーベンの当初の意図を尊重すると言うことで最終楽章にフーガを持ってくる事も増えてきています。
なお、この作品の一番の聞き所は言うまでもないことですが、「カヴァティーナ」と題された第5楽章の嘆きの歌です。ベートーベンが書いた最も美しい音楽の一つです。ベートーベンはこの音楽を最終楽章で受け止めるにはあの「大フーガ」しかないと考えたほどの畢生の傑作です。
「大フーガ」 変ロ長調 OP.133
741小節からなる常識外れの巨大なフーガであり、演奏するのも困難、聞き通すのも困難(^^;な音楽です。
弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 OP.131
孤高期の作品にあって形式はますます自由度を増していきますが、ここでは切れ目なしの7楽章構成というとんでもないとところにまで行き着きます。冒頭の第1ヴァイオリンが主題を歌い、それをセカンドが5度低く応える部分を聞いただけでこの世を遠く離れた瞑想の世界へと誘ってくれる音楽であり、その様な深い瞑想と幻想の中で音楽は流れきては流れ去っていきます。
ベートーベンの数ある弦楽四重奏曲の中でユング君が一番好きなのがこの作品です。
弦楽四重奏曲第15番 イ短調 OP.132
「ガリツィン四重奏曲」の中では2番目に作曲された作品です。この作品は途中で病気による中断というアクシデントがあったのですが、その事がこの作品の新しいプランとして盛り込まれ、第3楽章には「病癒えた者の神に対する聖なる感謝のうた」「新しき力を感じつつ」と書き込まれることになります。さらには、最終楽章には第9交響曲で使う予定だった主題が転用されていることもあって、晩年の弦楽四重奏曲の中では最も広く好まれてきた作品です。
弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 OP.135
第14番で極限にまで拡張した形式はこの最後の作品において再び古典的な4楽章構成に収束します。しかし、最終楽章に書き込まれている「ようやくついた決心(Der schwergefasste Entschluss)」「そうでなければならないか?(Muss es sein?)」「そうでなければならない!(Es muss sein!)」という言葉がこの作品に神秘的な色合いを与えています。
この言葉の解釈には家政婦との給金のことでのやりとりを書きとめたものという実にザッハリヒカイトな解釈から、己の人生を振り返っての深い感慨という説まで様々ですが、ベートーベン自身がこの事について何も書きとめていない以上は真相は永遠に藪の中です。
ただ、人生の最後を感じ取ったベートーベンによるエピローグとしての性格を持っているという解釈は納得のいくものです。
優雅さと品の良さ
シャーンドル・ヴェーグと言う名前が始めて私の視野に入ってきたのはカメラータ・ザルツブルクの指揮者としてでした。とりわけ、そのコンビによるモーツァルトのディヴェルティメント集の録音は、今も、心がいささか窮屈になってきたときには聞いてみたくなる演奏です。
決して急ぐことなく、ゆったりと、そしてある種の優雅さを失うことのない演奏を聴くと鬱屈していた心も解きほぐされて、楽に呼吸が出来るようになるのです。
それから、同じくモーツァルトの初期の交響曲も、このコンビでよく聞きました。
この初期交響曲の録音はディヴェルティメントほどには話題にはならなかったのですが、録音そのものが決して多くない作品なので、これもまたよく聞いた録音でした。
ですから、私にとってのシャーンドル・ヴェーグのイメージは、才能溢れる若き学生たちから慕われる老巨匠というものでした。
ただし、若い頃は何をしていたのかはあまりよく分からないという存在でもありました。
シャーンドル・ヴェーグが現役のソリストとしてバリバリ活躍していたホームグラウンドは室内楽の世界、特に力を注いでいたのがカルテットの世界でした。
彼は1935年にハンガリー弦楽四重奏団を結成してその第1ヴァイオリンの席に座るのですが、やがてその席をゾルターン・セーケイに譲り、自らはセカンドに回ります。ですから、このハンガリー四重奏団はセーケイの名前と結びつけて記憶されることになります。
このハンガリー四重奏団が戦争の影響で活動の本拠をオランダに移すと、ヴェーグはハンガリーに残ることを選んで、新しく自らの名を冠したヴェーグ四重奏団を結成します。そして、戦後ハンガリーから亡命したあとも彼の活動の拠点はこの四重奏団であり続け、1970年代の半ば頃までその演奏活動が続けられました。
そして、その活動に一つの区切りをつけたあとに引き受けたのがカメラータ・ザルツブルクの指揮者だったのです。
ヴェーグ四重奏団はその実力が高く評価されながら、同時代の他の弦楽四重奏団と較べると認知度が今ひとつ低いように感じます。ですから、指揮者としてのヴェーグしか知らない人も少なくないように見えます。
調べてみると、ベートーベンの弦楽四重奏曲の全曲録音を50年代と70年代の2回にわたって行っています。ベートーベンの弦楽四重奏曲ともなれば1回全曲録音を行うだけでも大変なものなのですから、それを2回も行っているというのは、彼らがいかに高く評価されていたかの証しだと言えます。
ただし、その録音を聞いていると、結果としての認知度が何故に低いのかも分かるような気がします。
一言で言えば欲がないのです。
音楽は何処まで行っても優雅で品がいいのですが、売れるがための押し出しと言うことに関してはいささかインパクトが低いのも事実です。
やはり、芸の世界というのは前に出てなんぼ、と言う面は否定できません。カラヤンやバーンスタインのように、そう言う押し出しに関しても抜かりのない人は記憶に残りやすいのですが、ヴェーグという人はそう言うタイプの人間からは最も遠い位置にいたのかもしれません。
この52年に集中的に録音された演奏を聴くと、そこにあるのは昔も今も、そして未来に向かってもこうやって私たちはベートーベンを演奏していくんだという思いが伝わってきます。
彼がかつて在籍したハンガリー四重奏団も同じ時期に全曲録音をしているのですが、そこでは「ベートーベンのスコアをもう一度徹底的に洗い出し、その研究の成果を現実の演奏として世に問う」という「売り」がありました。
同じく、ブダペスト弦楽四重奏団も全く同じ時期に録音をしているのですが、そこでも、この時代を席巻し始めた「新即物主義」に基づいたベートーベンの再構築という「売り」がありました。
しかし、ヴェーグによるベートーベンにはその様な目新しい「売り」はなく、知的に音楽を作り上げながらも、その音楽には古き良き時代の優雅さと品の良さが失われることはありません。確かに、楽譜を蔑ろにするような演奏でないことは事実なのですが、だからといって即物的な乾いた演奏に陥ることは慎重に避けられています。
そこでヴェーグが一番大切にしているのは、ベートーベンという男の内面に渦巻いていたであろう感情であり、そう言う主情的な側面により強く焦点を当てた演奏なのです。
その意味では古いと言えば古いタイプの演奏なのでしょうが、そう言う演奏に居心地の良さを感じるのも年を重ねたせいなのかもしれません。