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ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11
(P)サンソン・フランソワ ジョルジュ・ツィピーヌ指揮 パリ音楽院管弦楽団 1954年5月28日&6月1日録音をダウンロード
告別のコンチェルト
よく知られているように、ショパンにとっての協奏曲の第1作は第2番の方で、この第1番の協奏曲が第2作目の協奏曲です。
1830年4月に創作に着手され、8月には完成をしています。初演は、同年の10月11日にワルシャワ国立歌劇場でショパン自身のピアノ演奏で行われました。この演奏会には当時のショパンが心からあこがれていたグワドコフスカも特別に出演をしています。
この作品の全編にわたって流れている「憧れへの追憶」のようなイメージは疑いもなく彼女への追憶がだぶっています。
ショパン自身は、この演奏会に憧れの彼女も出演したことで、大変な緊張感を感じたことを友人に語っています。しかし、演奏会そのものは大成功で、それに自信を得たショパンはよく11月の2日にウィーンに旅立ちます。
その後のショパンの人生はよく知られたように、この旅立ちが祖国ポーランドとの永遠の別れとなってしまいました。
そう意味で、この協奏曲は祖国ポーランドとの、そして憧れのグワドコフスカとの決別のコンチェルトとなったのです。
それから、この作品はピアノの独奏部分に対して、オーケストラパートがあまりにも貧弱であるとの指摘がされてきました。そのため、一時は多くの人がオーケストラパートに手を入れてきました。しかし最近はなんと言っても原典尊重ですから、素朴で質素なオリジナル版の方がピアノのパートがきれいに浮かび上がってくる、などの理由でそのような改変版はあまり使われなくなったようです。
それから、これまたどうでもいいことですが、私はこの作品を聞くと必ず思い出すイメージがあります。国境にかかる長い鉄橋を列車が通り過ぎていくイメージです。ここに、あの有名な第1楽章のピアノソロが被さってきます。
なぜかいつも浮かび上がってくる心象風景です。
感情のおもむくままに
随分前に、フランソワを取り上げたときに次のように書きました。
『漸くにして時代はフランソワに追いついたのかもしれません。彼は決して「19世紀型ピアニストの最後の生き残り」などではなく、この行き詰まった即物主義の時代の先を歩いていたのです。』
やはりこの言葉は言い過ぎだったようです。褒めすぎでした。
フランソワというピアニストの本質は「19世紀型ピアニストの最後の生き残り」と見るのが正解のようです。
何故かと言えば、彼の録音を集中して聞いてみると、嫌でも気づかされることがあります。
それは、彼のすぐ後の時代に登場してきたさらに若い世代のピアニスト達と較べてみると、そのテクニックという点において根本的な違いがあることを認めざるを得ないからです。
それはポリーニやアシュケナージという人たちと比べてみると、メカニカルな巧拙というレベルの問題ではなくて、そう言うメカニカルな部分に対する捉え方の根本が異なっているように聞こえるのです。
聞けば分かるようにフランソワは同時代のピアニスト達と較べてみても決して下手なピアニストではありません。しかし、そのテクニックは何があっても微塵も揺らぐことがないと言う、強固な基盤の上には成り立っていません。
作品と向き合って感情が揺らいだり、爆発したりすれば、そのテクニックはその感情にあおられて揺らいでしまいます。しかし、その揺らぎは作品の形をゆがめてしまう一歩手前のところで踏みとどまります。
そこにフランソワの真骨頂がありました。
しかしながら、そんなスタイルで演奏を繰り返していればいつか身も心も持たなくなる時がやってきます。実際、フランソワのコンサートは出来不出来の差が大きいのは有名な話で、それを彼の気まぐれに帰することが多かったのですが、実際はもっと根本的な部分に問題があったのではないかと思うのです。
ポリーニは1942年生まれです。彼が5歳で本格的にピアノの学習に取り組んだときには戦争は終わっていました。
それに対して、1924年生まれのフランソワは、ピアノの基礎を学ぶべき若き時代のほぼ全てを戦争の中で過ごさざるを得なかったのです。
強固な規律、巌のような我慢強さというものは大人になってから後天的に身につけるのは不可能です。それはピアノのテクニックにおいても同様で、ポリーニやアシュケナージのようなピアニストは、戦争の動乱の中で子供時代を過ごした人間からは生まれないのではないでしょうか。
つまりは、ポリーニの世代のピアニストにとってメカニカルはピアノを弾く上での確固たるフレームとなり得ているのですが、フランソワのメカニカルはその様な強固なものではなく、彼自身もまたその様な音楽とは全く違う世界の住人だったのです。
ただし、フランソワには、ショパンの感情と同化できる天才的な閃きがありました。
ですから、まるで感情のおもむくままに好き勝手に弾いているようでありながら、それでもテクニック的に破綻をきたす心配の少ない作品では素晴らしい適応を示します。
そして、その魅力はポリーニやアシュケナージのようなタイプのピアニストからでは絶対に聞くことのできない音楽です。
もちろん、だからといって、どちらが優れているか、みたいなつまらぬ話をしたいわけではありません。
ただ、疑いがないのは、時代はフランソワを置き去りにしてポリーニに代表される新しピアニスト達の時代へと移り変わっていったことです。ですから、50年代のフランソワに対して、60年代のフランソワには翳りがつきまといます。己の感情のおもむくままにショパンを演奏してたフランソワの姿は少しずつ影を潜めていきました。
そして、その時の流れの中でフランソワは酒と煙草に溺れて46歳で急逝したという事実だけが残ったのです。