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バルトーク:ピアノ協奏曲 第3番 Sz.119
(P)ジュリアス・カッチェン エルネスト・アンセルメ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団 1953年録音 をダウンロード
たった3曲でバルトークの創作の軌跡をおえるコンチェルト
バルトークについては、彼の弦楽四重奏曲をアップするときに自分なりのオマージュを捧げました。そして、その中で「バルトークの音楽は20世紀の音楽を聞き込んでいくための試金石となった作品でした。とりわけ、この6曲からなる弦楽四重奏曲は試金石の中の試金石でした。」と書いています。
その事は、この一連のピアノ協奏曲にも言えることであって、とりわけ1番と2番のコンチェルトは古典派やロマン派のコンチェルトになじんできた耳にはかなり抵抗感を感じる音楽となっています。
その抵抗感のよって来たるところは、まず何よりも旋律が気持ちよく横につながっていかないところでしょう。ピアノやオケによって呈示されるメロディはどこまで行っても「断片」的なものであり、「甘さ」というものが入り込む余地が全くありません。さらに、独奏ピアノは華麗な響きや繊細でメランコリックな表情を見せることは全くなく、ひたすら凶暴に強打される場面が頻出します。こういう音楽は、聞き手が「弱っている」時は最後まで聞き通すのがかなり困難な代物なのです。
弦楽四重奏曲については、「すごく疲れていて、何も難しいことなどは何も考えずに、ただ流れてくる音楽に身を浸している時にふとその音楽が素直に心の中に入ってくる瞬間がある」みたいなことを書きましたが、このコンチェルトに関しては、そう言う状態で向きあうと間違いなくノックアウトされてしまいます。
そうではなくて、このコンチェルトに関しては、気力、体力ともに充実し、やる気に満ちているようなときに向きあうべき音楽なのです。そうすると、この凶暴なまでに猛々しい姿を見せる音楽が、ある時不意に「快感」に変わるときがあります。
そして、バルトークの音楽の不思議は、単独で聞けばかなり耳につらい不協和な音があちこちで顔を出すのに、音楽全体は不思議なまでの透明感を保持していることにも気づいてきます。
さて、ここから書くことは全くの私個人の感慨です。
バルトークの創作の軌跡を追っていて、イメージがダブったのは画家のルオーです。
彼は「美しい」絵を拒否した画家でした。若い頃のルオーが描く題材は「売春婦や娼婦」が中心であり、そう言う「醜い存在」を徹底的に「醜く」描いた画家でした。
専門家は彼のことを「醜さの専門家」と言って攻撃しましたが、その攻撃に対して彼は「私は美ではなく、表現力の強さを追求しているのです」と主張しました。
そんなルオーなのですが、その晩年において、天国的とも言えるような「美しい」絵を描きました。
茨木のり子が「わたしが一番きれいだったとき」という詩の中で
だから決めた できれば長生きすることに
年取ってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
と書いたように、本当に美しい絵を描きました。
バルトークもまた、若い頃は、どうしてそこまで不協和音を強打するんだと思うほどに、猛々しい音楽を書きました。
それは、第1番のコンチェルトに顕著であり、第2番は多少は聞きやすくなっているとは言え、依然として手強いことは否定できません。それは、作曲者自身が「聴衆にとってもっと快い作品としてこの第2番を作曲した。」と語ってくれたとしても、古典派やロマン派の音楽に親しんだ耳には到底聞きやすい音楽とは言えません。
しかし、そんな彼も晩年になると、音楽の姿が大きく変化します。
第6番の弦楽四重奏曲やオケコンのエレジーなどは、古典派やロマン派の音楽とは佇まいがかなり異なりますが、それでも素直に「美しい」と思える姿をしています。
それは、彼の白鳥の歌となった第3番の協奏曲ではさらに顕著となります。
そして、その「美しさ」は、晩年のルオーとも共通する「天国的」なものにあふれています。
いわゆる「専門家」と言われる人の中には、このようなバルトークの変化を「衰え」とか「退嬰」だと主張する人がいますが、私は全くそうは思いません。
彼もまた、ルオーと同じように、その晩年にいたって「凄く美しい絵」をかいてくれたのだと思います。
バルトークの生涯はルオーの生涯に包含されます(ルオー爺さんはホントに長生きしました)から、この二人は同時代人と言っていいでしょう。もちろん、こんな関連づけは「こじつけ」の誹りは免れがたいとは思いますが、それでもジャンルは違え、同じ芸術家としてその創造の根底において共通する何かがあったような気がしてなりません。
かなりの困難を伴うかもしれませんが、できることならばこの3曲のコンチェルトを聞き通すことで、そんなバルトークの軌跡をたどっていただければ、いろいろと感じることも多いのではないでしょうか。
「彼岸」の響きではなくて、こちら側の世界に引き戻した「此岸」の響きで構築された「白鳥の歌」
この演奏にはいささか驚かされました。それは、私がこの作品に抱いているイメージとは全くかけ離れた表現だったからです。
しかし、そのかけ離れ方というのは、なるほど考えてみればそれも有りだなと言うものなので、少しばかりニヤリとさせられるものでした。
私がこの作品に抱くイメージとは、一言で言えば「彼岸」です。
バルトークの音楽も今となっては「古典」の部類に属する音楽になってはいるのですが、それでも古典派やロマン派の音楽に聞きなじんだ耳からすれば「聞きやすい」音楽とは言えません。とりわけ、第5番までの弦楽四重奏曲や、1番、2番のピアノ協奏曲を心地よく聴ける人はそれほど多くはないでしょう。
しかし、アメリカに亡命を余儀なくされた晩年に近づくと、例えば第6番の弦楽四重奏曲やオケコンのエレジーのように、古典派やロマン派の音楽とは佇まいがかなり異なりますが、それでも素直に「美しい」と思える音楽に姿が変わっていきます。
それは、彼の白鳥の歌となった第3番のピアノ協奏曲ではさらに顕著となります。
そして、その「美しさ」には「天国的」なものがあふれています。
バルトークの音楽は「此岸」的な濁りからますます遠ざかり、まるでこの世のものではないような透き通った存在、つまりは「彼岸」的な響きをまとっていくのです。
しかし、ここで聞くことのできる第3番のコンチェルトは、そう言う「彼岸」の響きではなくて、こちら側の世界に引き戻された「此岸」の響きになっています。
そう言えば、アンダとフリッチャイの録音もマジャールの魂が炸裂するような音楽でしたが、この録音はそれ以上にマジャールの土臭さを感じさせてくれます。
不思議なのは、この土着性を強く感じさせるスタイルがアンセルメとカッチェンという、そう言う世界からは最も遠く離れているとしか思えないコンビによって実現していることです。
しかし、このコンビでそう言う音楽を聞き進んでいくと、なるほどその様な土臭さは確かにスコアの中に封じ込められたものであることにも気づかせてくれるので、妙に納得してしまうのです。
そして、もしかしたら、多くの人はこの作品がバルトークの「白鳥の歌」と言うことで、そう言う「土臭さ」を知らず知らずのうちに洗い流していたのかも知れないという気もしてくるのです。
そう思えば、アンセルメとカッチェンという、この作品に対して(おそらくは)それほど深い思い入れを持たないであろう二人だからこそ、そこに込められたもう一つの顔を素直に表出できたのかも知れません。
そして、そう言う自由な発想が出来たのは、この作品が作られてから10年も経っていないという「生乾き」だったからでしょう。それが、次第に年を重ねて「然るべき形」に乾いてしまえば、その「然るべき形」から外れて演奏するのは難しくなっていきます。
そう言う意味では、この時代ならではの表現という価値は小さくないと思います。
また、録音に関してもモノラルとは思えないほどに楽器の分離がよいのには驚かされます。モノラル録音の「真価」を知る上でも貴重な録音です。