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シューマン:交響曲第1番 変ロ長調 「春」作品38
エルネスト・アンセルメ指揮 スイスロマンド管弦楽団 1951年3月録音をダウンロード
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湧き出でるがごとき霊感によって、一気呵成に仕上げられたファーストシンフォニー
1838年から39年にかけてシューマンはウィーンを訪れます。
シューマンにとってウィーンとは「ベートーベンとシューベルトの楽都」でしたから、シューベルトの兄であるフェルディナントのもとを訪れるとともに、この二人の墓を詣でることは彼にとって大きな願いの一つでした。
そして、ベートーベンの墓を詣でたときに、彼はそこで一本のペンを発見したと伝えられています。そして、彼はそのペンを使ってシューベルトのハ長調シンフォニーついての紹介文を執筆し、さらにはこの第1番の交響曲を書いたと伝えられています。
もちろん、真偽のほどは定かではありませんが、おそらくは「作り話」でしょう。
しかし、作り話にしても、よくできた話です。
そして、シューマンが自分を、ベートーベンからシューベルトへと受けつがれた古典派音楽の正当な継承者として自負していたことをよく表している話です。
シューマンは、同一ジャンルの作品を短期間に集中して取り組む傾向がありました。
クララとの結婚前までは、彼の作品はピアノに限られていました。
ところが、結婚後は堰を切ったように膨大な歌曲が生み出されます。そして、このウィーン訪問のあとは管弦楽作品へと創作の幅を広げていきます。
この時期の管弦楽作品の中で最も意味のある創作物である第1番の交響曲は、わずか4日でスケッチが完成されたと伝えられいます。
まさに、何かをきっかけとして、あふれる出るように音楽が湧きだしたシューマンらしいエピソードです。
彼の日記によると、1841年の1月23日から仕事にかかって、26日にはスケッチが完成したと書かれています。そして、翌27日からはオーケストレーションを始めて、それも2月20日に完成したと記録されています。
まさに、湧き出でるがごとき霊感によって、一気呵成に仕上げられたのがこのファーストシンフォニーでした。
しかし、この交響曲をじっくりと聞いてみると、明らかにベートーベンから真っ直ぐに引き継いだ作品と言うよりは、この後に続くロマン派の交響詩の嚆矢という方がふさわしい作品となっています。
おそらく、そんなことは私ごときが云々するまでもなく、シューマン自身も気づいていたことでしょう。
それ故に、この後に続く管弦楽作品では苦吟することになります。
第2番の交響曲は完成はしたものの納得のいく出来とはならずにお蔵入りとなり、晩年になって改訂を加えて第4番の交響としてようやく復活します。
ハ短調のシンフォニーはスケッチだけで破棄されています。
その他、例を挙げるのも煩雑にすぎるのでやめますが、結局はこの第1番の交響曲以外は完成を見なかったのです。
私ごときが恐れ多い言葉で恐縮ですが(^^;、この事実は複雑な管弦楽作品をしっかりとした構成のもとで完成させるには、未だ己の技法が未熟なことを知らしめることになったようです。
そして、その様な未熟さを克服すべく創作の中心を室内楽へと転換させていくことになります。
シューマンの交響曲はとかく問題が多いと言われます。
彼の資質は明らかに古典派のものではありませんでした。交響曲だけに限ってみれば、ベートーベンの系譜を真っ直ぐに引き継いだのは彼の弟子であるブラームスでした。
それ故に、そう言うラインで彼の交響曲を眺めてみれば問題が多いのは事実です。
しかし、彼こそは生粋のロマンティストであり、ベートーベンとは異なる道を歩き出した音楽としてみれば実に魅力的です。
楽器を重ねすぎて明晰さに欠けると批判される彼のオーケストレーションも、そのくぐもった響きなくしてシューマンならではの憂愁の世界を表現することは不可能だとも言えます。
あのメランコリックは本当にココロに染みいります。
たとえば、第2楽章のやさしくも深い情緒に満ちた音楽は、古典派の音楽が表現しなかったものです。
もちろん、演奏するオケも指揮者も大変でしょう。
みんなが気持ちよく演奏できるブラームスの交響曲とは大違いです。
しかし、その大変さの向こうに、シューマンならではの世界が展開するのですから、原典尊重でみんなで汗をかく時代になって彼の交響曲が再評価されるようになったのは実に納得のいく話です。
なお、どうでもいい話ですが、シューマンはベッドガーという人の詩から霊感を得てこの交響曲を作曲したと述べています。ですから、各楽章のはじめに「春のはじめ」「たそがれ」「楽しい遊び」「春たけなわ」と記しています。
この交響曲には「春「と言うタイトルがつけられていますが、それは後世の人が勝手につけたものではなくて、シューマンのお墨付きだと言えます。
アンセルメの演奏は極めて安定していて明晰です。それはもう、明晰すぎるほどに明晰です。
アンセルメが活躍しした時代は、その響きはシューマンの「杜撰」さの産物だと考えられていました。
しかし、最近はその様な響きによって描き出される世界にこそシューマンの本質があると考えられるようになってきています。原典尊重は常に錦の御旗なのですから当然と言えば当然のスタンスですし、実際魅力ある世界を描き出してくれるのも事実なのです。
しかし、それでもなお、今の時代にあってもスコアに手を入れることを躊躇わない指揮者もいますから、この問題はそれほど簡単にけりがつくものではないようです。
ただし、同じように手を入れると言っても、その入れ方には随分と差があります。
「原典尊重の鬼」みたいないわれ方をされるセルもまたスコアに手を入れていますが、ここまでクッキリシャッキリとした響きにはなっていません。
スコアに手を入れているのかどうかは確認できていませんが、コンヴィチュニーなどは実にくすんだ響きを聞かせてくれるので、このアンセルメの演奏と較べるとまるで別の作品のようにすら聞こえてしまいます。
そして、このアンセルメの異響きに一番近しいのはパレーの演奏でしょう。
両者ともに根っこはフランスですね。
「ドイツ」を「フランス」がかみ砕けばこうなるという見本のようなものでしょうか。
なお、交響曲第1番は1951年のモノラル録音なのですが、録音を担当したのは「Victor Olof」なので、驚くほどの切れ味のある音で演奏がとらえられています。
「Victor Olof」といえば、DECCAの表看板だった「ffrr」というハイファイ録音技術の開発したことで知られているのですが、それ以上に、録音における録音会場の重要性を真っ先に認識したことこそ評価すべき人物でしょう。DECCAは「Victor Olof」の耳で確認して「OK」が出た会場しか録音には使いませんでしたから、「Victor Olof」は「DECCAの音を作った人」と称されました。
ただ、残念なのは、ステレオ録音の時代にはいるとDECCAの録音現場から離れてしまったことなのですが、そでも「Kenneth Wilkinson」などがその伝統を引き継いでいきました。
ちなみに、1965年録音の交響曲第2番の録音エンジニアは「James Lock」です。
彼もまた「手を叩くだけでホールの音響特性が判断できる」と言われる耳の持ち主でした。こういう連中がゴロゴロいたのがDECCAの凄いところだったのです。
ただし、そう言う優れた録音陣によって提供された演奏と、来日時の演奏との落差が大きかったので、「アンセルメの演奏は録音によるマジック」だと言われて評判を下げてしまったのは気の毒でした。来日時にはすでに音楽監督を退任していましたし、その翌年には亡くなってしまったのですから、到底本調子と言える状態ではなかったようです。
しかし、その事がこの国では彼の評価を押し下げる要因となりつづけたのですから、この世の中、何が功となり、何が躓きの石となるか分かったものではありません。