クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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モーツァルト:ファゴット協奏曲変ロ長調 変ホ長調 K.191(K.186e)


(Fagott)カール・エールベルガー アルトゥール・ロジンスキー指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団 1954年録音をダウンロード

  1. モーツァルト:ファゴット協奏曲変ロ長調 変ホ長調 K.191(K.297b)「第1楽章」
  2. モーツァルト:ファゴット協奏曲変ロ長調 変ホ長調 K.191(K.297b)「第2楽章」
  3. モーツァルト:ファゴット協奏曲変ロ長調 変ホ長調 K.191(K.297b)「第3楽章」

夢見るアリオーソ



残された資料によると、モーツァルトは5曲のファゴット協奏曲を作曲した可能性があるのですが、残念ながら残されているのはこの1曲だけです。そして、この1曲が、モーツァルトが一番最初に書いた(現存している?)「管楽器のための協奏曲」です。
おそらく、この協奏曲はザルツブルグ宮廷楽団のファゴット奏者のために書かれたものだと推測されています。

それにしても、モーツァルトは管楽器奏者のために多くの優れた作品を残してくれました。
とりわけ、ホルンとクラリネットに関しては音楽史上に燦然と輝く傑作ですし、その響きが最後まで気に入らなかったフルートにも美しい音楽を数多く残しました。
そして、オーボエや、さらにはファゴットと言うことになれば、その楽器のソリストにとってはなくてはならない作品になっています。もちろん、モーツァルト以外の作曲家もファゴットのための協奏曲は書いていますし、例えばヴィヴァルディなどは大量の作品を残しています。しかし、演奏機会と言うことで言えば、このモーツァルトの作品の足元にも及びません。

このファゴット協奏曲の最大の特徴は、音域に関しても、さらには音量という面でも制限があるファゴットの不自由さをオーケストラが見事に支えていることです。例えば、弱音器をつけて演奏される第2楽章の弦楽器群のほの暗い響きは、独奏楽器であるファゴットの響きに見事に寄り添っています。

この作品の成立時期は「1774年6月4日、ザルツブルグにおいて」と確定していますから、その時モーツァルトは18才です。
つまりは、その時すでにモーツァルトは熟達した職人としての腕を身につけていた事を、この作品は見事なまでに証明しているのです。

そして、そう言うオーケストラによって与えられた枠組みの中で、ファゴットならではの響きで、まるでオペラのアリアのように音楽が紡がれていきます。
とりわけ第2楽章の「Andante ma Adagio」は小さなアリアそのものです。ある人はこの楽章を「夢見るアリオーソ」と呼びました。

こういう音楽を聞くと、ハイドンは器楽の人であったのに対して、モーツァルトというのは骨の髄までオペラの人であったことを再認識させられます。


  1. 第1楽章:Allegro

  2. 第2楽章:Andante ma Adagio

  3. 第3楽章:Rondo: tempo di menuetto




最も「ウィーン的」なものと、最も「アメリカ的」なものがであっている


ここでは少し「ウィーン風」と言うことについて考えてみたいと思います。
なぜならば、ここでソリストをつとめているのがウィーンフィルのファゴット奏者であり、戦後の混乱の中から立ち直っていくウィーンフィルを支えた立役者の一人でもあるカール・エールベガーであり、それをサポートしているロジンスキーという指揮者は長きにわたってアメリカで活躍してきた人物だからです。

つまりは、ここには最も「ウィーン的」なものと、最も「アメリカ的」なものがであっているのです。
まず、ロジンスキーの指揮は隅から隅までキッチリと光を当てたようなクリア極まる造形で押し切っています。弦楽器に弱音器がつけられて演奏される第2楽章でも響きはそれほどほの暗くはなりません。

もしも、ここにアメリカのファゴット奏者がソリストをつとめていれば、端正で整ったモーツァルトにはなってもいささか潤いにかける音楽になったことでしょう。

しかし、幸いにしてソリストはウィーンフィルのエールベルガーでした。
そして、モーツァルトの筆は、オーケストラがファゴットを万全の体制でサポートするように書いていますから、そのスコアを落ち度なく再現すれば、その響きを舞台としてファゴットは自由に振る舞うことが出来ます。
つまりは、アメリカ的感性で万全に設えら得た舞台の上で、ファゴットは見事なでの役者ぶりを発揮しているのです。

しかし、こういうファゴットの歌い回しは「古いウィーン」にはなかった事も見ておく必要があります。
その事はクラリネット奏者のウラッハの場合と同様でした。

戦後の混乱の中でウィーンの音楽家たちは日々の糧にも事欠く状態でした。
そんな疲弊した中で録音のオファーをしてきたウェストミンスターは、当時のウィーンの音楽家にとっては救いの神に見えたのではないでしょうか。

当時、レコード産業の中心はアメリカでした。
そこでは、メジャーオーケストラや人気ソリストたちは巨額のギャランティで録音活動を行っていました。その巨額のギャランティは多くの売り上げが見込めるメジャーレーベルならば支払えても、ウェストミンスターのような新興のマイナー・レーベルにとっては支払えるような額ではありませんでした。

そんな時に、この二つがであったのです。
ウェストミンスターにしてみれば格安のギャランティで優秀な音楽家を起用することが出来ました。そして、ウェストミンスターにしてみれば格安のギャランティであっても、未だ戦後の混乱期にあったウィーンの音楽家にとっては貴重な現金収入でした。

そんな二つが手を結べば、後はアメリカでの売り上げを伸ばすことが重要になります。
そして、考え、試したのだと思います。そして、到達した結論は自分たちのローカリティをこそ大切にし磨きをかけると言うことだったのです。グローバルスタンダード(そんな言葉が当時あったのかどうかは分かりませんが)としてのアメリカ的音楽と同じレベルで競争するのではなくて、それとは全く異なるスタイルの音楽で勝負することだったのです。

そして、その後の歴史を見ればこの戦略が見事に成功し、「ウィーン」というのが一つのブランド的価値を持つようになっていくのです。
ですから、ウェストミンスターというマイナーレーベルが「ウィーン的」なものを作りあげたとまでは言いませんが、少なくともそう言うものを再生成していく上での欠くべからざる「触媒」の働きをしたことだけは明らかです。

ここで聞くことのできるエールベルガーのソロも、おそらくは昔から引き継いできたウィーンのローカリティなものをそのまま再現するのではなくて、アメリカという市場を意識してより「訛り」を強くすることでアメリカ的なものとの対比をより強く打ち出していることが分かります。
そして、その意識して強化された「ウィーン風の訛り」が整然としたオーケストラの響きとであうことで実に面白い音楽に仕上がっているのです。

ただし、一つ注意が必要なのは、この後「ウィーン」がブランド化される中で、団体名に「ウィーン」をつけることで、雑なアンサンブルで緩んだ演奏を「ウィーン風」と言い張る噴飯ものの輩が雨後の筍のように登場してくるのですが、そう言う「ウィーン風」とは全く異なるものだと言うことです。
ここで聞くことのできるのは、自らの出自を見直して、その中から価値あるものを選び取ってもう一度再構築していこうと言う「創造の息吹」です。
そして、そう言う高い志に根ざした「ウィーン的」なものが少しずつ姿を消していく現状では、この40年代後半から60年代の初頭にかけてウェストミンスターが残した録音の価値が失われることはないでしょう。