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ベートーベン:交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」, Op.125
ウィレム・メンゲルベルク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 (S)トー・ファン・デル・スルイス (A)スーゼ・ルーヘル (T)ルイ・ファン・トゥルダー (Bass)ウィレム・ラヴェッリ アムステルダム・トーンクンスト合唱団 オランダ王立オラトリオ協会合唱団 1940年5月2日録音をダウンロード
- Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral" [1.Allegro Ma Non Troppo, Un Poco Maestoso]
- Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral" [2.Molto Vivace]
- Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral" [3.Adagio Molto E Cantabile; Andante; Adagio]
- Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral" [4.Presto; Allegro Ma Non Troppo; Allegro Assai; Presto; Allegro Vivace; Alla Marcia; Andante Maestoso; Allegro Energico Sempre Ben Marcato; Allegro Ma Non Tanto; Poco Adagio; Prestissimo]
何かと問題の多い作品です。
ベートーベンの第9と言えば、世間的にはベートーベンの最高傑作とされ、同時にクラシック音楽の最高峰と目されています。そのために、日頃はあまりクラシック音楽には興味のないような方でも、年の暮れになると合唱団に参加している友人から誘われたりして、コンサートなどに出かけたりします。
しかし、その実態はベートーベンの最高傑作からはほど遠い作品であるどころか、9曲ある交響曲の中でも一番問題の多い作品なのです。さらに悪いことに、その問題点はこの作品の「命」とも言うべき第4楽章に集中しています。
そして、その様な問題を生み出して原因は、この作品の創作過程にあります。
この第9番の交響曲はイギリスのフィルハーモニア協会からの依頼を受けて創作されました。しかし、作品の構想はそれよりも前から暖められていたことが残されたスケッチ帳などから明らかになっています。
当初、ベートーベンは二つの交響曲を予定していました。
一つは、純器楽による今までの延長線上に位置する作品であり、もう一つは合唱を加えるというまったく斬新なアイデアに基づく作品でした。後者はベート−ベンの中では「ドイツ交響曲」と命名されており、シラーの「歓喜によせる」に基づいたドイツの民族意識を高揚させるような作品として計画されていました。
ところが、何があったのかは不明ですが、ベートーベンはまったく異なる構想のもとにスケッチをすすめていた二つの作品を、何故か突然に、一つの作品としてドッキングさせてフィルハーモニア協会に提出したのです。
そして出来上がった作品が「第九」です
交響曲のような作品形式においては、論理的な一貫性は必要不可欠の要素であり、異質なものを接ぎ木のようにくっつけたのでは座り心地の悪さが生まれるのは当然です。もちろん、そんなことはベートーベン自身が百も承知のことなのですが、何故かその様な座り心地の悪さを無視してでも、強引に一つの作品にしてしまったのです。
年末の第九のコンサートに行くと、友人に誘われてきたような人たちは音楽は始めると眠り込んでしまう光景をよく目にします。そして、いよいよ本番の(?)第4楽章が始まるとムクリと起きあがってきます。
でも、それは決して不自然なことではないのかもしれません。
ある意味で接ぎ木のようなこの作品においては、前半の三楽章を眠り込んでいたとしても、最終楽章を鑑賞するにはそれほどの不自由さも不自然さもないからです。
極端な話前半の三楽章はカットして、一種のカンタータのように独立した作品として第四楽章だけ演奏してもそれほどの不自然さは感じません。そして、「逆もまた真」であって、第3楽章まで演奏してコンサートを終了したとしても、〜聴衆からは大ブーイングでしょうが・・・〜これもまた、音楽的にはそれほど不自然さを感じません。
ですから、一時ユング君はこのようなコンサートを想像したことがあります。
それは、第3楽章と第4楽章の間に休憩を入れるのです。
前半に興味のない人は、それまではロビーでゆっくりとくつろいでから休憩時間に入場すればいいし、合唱を聴きたくない人は家路を急げばいいし、とにかくベートーベンに敬意を表して全曲を聴こうという人は通して聞けばいいと言うわけです。
これが決して暴論とは言いきれないところに(言い切れるという人もいるでしょうが・・・^^;)、この作品の持つ問題点が浮き彫りになっています。
この葉脈って素敵?
メンゲルベルグという人は細部優先の人だと思われています。ひどい人になると、木や森は見ないでその葉っぱにばかりこだわって「この葉脈って素敵!!(*^_^*)」とつぶやく人だといわれたりもします。確かに20年代の一連の録音、とりわけチャイコフスキーの交響曲などを聴くとそういういわれ方をされても仕方がないかな・・・と思ったりもします。しかし、晩年の、とりわけ40年代以降の録音を聞くと事はそれほど単純ではないことを知らされます。
ベートーベンの第9というのはいろいろと問題の多い作品です。とりわけ、前半の三楽章と後半の合唱付きの部分が木に竹を接いだようになっている不整合さをどのように処理するかは常に問題となります。また、人気の高い合唱付きの第4楽にしても、それを「音によるドラマ」としてとらえたときには、何だかとらえどころのない鵺のような存在であることも悩ましい限りです。
このような不都合さは、音楽を偉大なドラマとして再現してみせるフルトヴェングラーのようなタイプの指揮者にとっては実に悩ましい問題です。
にもかかわらず、彼はここぞという大事なときにこの作品を取り上げ、歴史に残るような名演を数多く残しています。
しかし、そういう一連の録音をもう一度じっくりと聞き返してみると、その素晴らしさは否定しないものの、本当はドラマにはなり得ないものを、無理矢理ドラマに仕立て上げているのではないか?という疑惑(?)も浮かび上がってきます。言葉をかえれば、本来はドラマにならないものに自分なりの筋立てを強引に押しつけて自己流のドラマに仕上げているのではないか?という疑惑です。もちろん、今の時代には疎まれるのでしょうが、そういう徹底的に主観的なベートーベン演奏があってもいいと思うので、私はそういうスタイルは決して否定はしません。
メンゲルベルグの演奏は、そのようなフルトヴェングラーのやり方とは全く異なります。
ベートーベンの第9といえども、メンゲルベルグは細部を優先することを基本としています。(「この葉脈って素敵!!(*^_^*)」!!)
第1楽章などはそのこだわりは徹底していますし、最終楽章もなかなかのものです。とりわけ合唱の扱いのねちこさは特筆ものでしょう。しかし、そのような細部優先の演奏でありながら、聞き終わった後にはとても大きな音楽を聞いたような満足感があります。
なぜならば、20年代のメンゲルベルグが「この葉脈って素敵!!」で終わっていたのが、晩年の演奏では「この葉脈って素敵!!」と言いながらも、その「素敵な葉っぱや小枝」を積み重ねていくことで、最終的には立派な大木に仕上げているのです。私たちは、様々に素敵な葉脈や小枝たちに出会いながら、そうして仕上がった大木を最後に仰ぎ見ることで、大きな音楽を聞いたという満足感を得るのです。
もう少し一般性のある言い方をすると(-_-;)、基本は細部優先でありながらも、そのような細部を一つの素材としてこつこつと積み上げていくことで、結果として巨大な構築物に仕上げてしまうのが晩年のメンゲルベルグなのです。
ですから、メンゲルベルグのことを死ぬまで「この葉脈って素敵!!(*^_^*)」と言い続けた人だと思ったら大きな間違いです。20年代のメンゲルベルグと晩年のメンゲルベルグとの間には大きな相違が存在するのです。
なまじ第9にドラマを求めるからややこしいのであって、そういうドラマ性などは最初から無視して、そこに提示された細部を素材としてこつこつと積み上げることで、結果として巨大な音の構築物として仕上げれば、前半と後半の不整合も、最終楽章の鵺のような性格も全く気にならないし、なんと言っても仕上がりが自然です。
そして、このような方法論こそがが、いろいろと問題の多いベートーベンの第9を解決する上で最も有効なやり方ではないだろうか!と思わせてくれるのがこの演奏です。
話はかわりますが、こういうアプローチの仕方は、表面的には全く異質としか言いようのないセルの第9と共通する面があることにも気づかされます。そういえば、セルはチャイコの5番で楽譜にないシンバルの一撃を追加するという、セルらしからぬ荒技を披露していますが、その荒技の源流はこのメンゲルベルグです。
この二人は意外なところで意を通じていたのかもしれません。
ただし、最後の最後でのずっこけだけは理解できません。
なかなか一筋縄ではいかない人です。