FLAC モノラルファイルデータベース>>>Top
モーツァルト:交響曲第31番ニ長調 K.297 「パリ」
ヨーゼフ・クリップス指揮 ロンドン交響楽団 1951年12月録音をダウンロード
- Mozart:Symphony No.31 in D major, K.297/300a "Paris" [1.Allegro assai]
- Mozart:Symphony No.31 in D major, K.297/300a "Paris" [2.Andante]
- Mozart:Symphony No.31 in D major, K.297/300a "Paris" [3.Allegro]
クリップスのレパートリーの中で本線中の本線だったのがモーツァルトです
最近になってからふと気づいたことなのですが、クリップスという人のレパートリーは非常に狭いように思えるのです。
もちろん、クリップスのディスコグラフィなどと言うものが完備されているはずもないので感覚的な話になるのですが、そのレパートリーはドイツ・オーストリア系の音楽に著しく偏っているように思われるのです。
例えば、彼の初期録音を集めたボックス盤などを眺めていると、モーツァルト、ハイドン、ベートーベン、シューベルト、シューマン、ブラームスの作品で大半が埋まってしまいます。
それでいながら、バッハやブルックナーの録音はほぼ皆無なのです。
確かに、昔の巨匠というのはレパートリーが非常に狭くて、限られた作品しか取り上げないというのは珍しい話ではなかったのですが、それでもバッハやブルックナーが欠落すると言うことはありませんでした。
ですから、一見すれば独襖系を中心とした巨匠風のレパートリーのように見えながら、実際はかなり歪なレパートリーになっているのです。
クリップスは手兵だったサンフランシスコ響を率いて1968年に来日公演を行っています。
その時にはブルックナーの7番も取り上げていて、それが大変な名演だと言うことで話題になったそうです。また、武満徹の「弦楽の為のレクイエム」やコープランドの「静かな町」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」なども取り上げています。
ですから、決してディスコグラフィから浮かび上がってくるような狭いレパートリーの持ち主ではなかったのです。
おそらく、この歪な録音歴の背後に、クリップスがおかれた微妙な立場があったことは間違いありません。
クリップスの経歴を見てみれば、彼もまたヨーロッパの伝統である地方の歌劇場からの叩き上げであることが分かります。そして、優れたオーケストラビルダーであり、戦後の混乱の中で苦境に陥っていたウィーンの歌劇場を救ったのがクリップスでした。
しかしながら、最後までポストには恵まれない指揮者であり、さらに哀しいことに彼が救いの手をさしのべたウィーンを中心として意図的と思えるほどにその評価は貶められてきたのです。
ただし、そうなってしまう背景には、リハーサルの時に音楽について長々と講釈を垂れてしまう癖があったからだとも言われています。
これはどの指揮者も陥ってしまいがちな悪癖なのですが、クリップスの場合はそれが特に酷くて、プライドの高いオケであればあるほど反発を感じたようです。
そう言えば、Deccaのプロデューサだったカルショーもまた、この悪癖こそが指揮者のキャリアを駄目してしまう最大の悪癖だと述べていました。
ですから、彼はお気に入りのショルティにもこの悪癖があることを知らせるために、その長講釈をこっそりと録音し、それを後日ショルティに聞かせたそうです。
普通はそんな事をすれば喧嘩別れにもなりかねないのですが、ショルティはそれを苦い忠告として素直に受け入れたのです。
芸と人間性は別物だとは良く言われるのですが、指揮者という稼業は他人に音を出してもらうしか術がないのですから、全く別物だとは言い切れない稼業なのかもしれません。
しかし、それでもなお、彼の独襖系を中心とした音楽への適応力は無視できなかったのでしょう。
オケのメンバーにとっては、横暴極まる独裁者よりもウンザリさせられるという「長講釈」があったとしても、彼の音楽は無視は出来なかったのでしょう。ただし、我慢が出来たのは彼の本線であった独襖系の音楽だけだったと言うことなのでしょうか。
そんなクリップスの本線中の本線がこのモーツァルトでしょう。
彼は、その最晩年にコンセルトヘボウ管とモーツァルトの交響曲の録音を始めるのですが、道半ばで急逝してしまいます。もしも、それが全集として完成していれば彼に対する評価も随分と変わっていたと思うのですが、本当に運がない人でした。
さらに言えば、その残された録音もまた著作権の保護期間が延長されたことでパブリックドメインになることもなく埋もれてしまう可能性が高いのです。
クリップスという人はとことん運のない人だったようです。
クリップスは50年代の初めにロンドン響と以下の3曲の交響曲を録音しています。
- 交響曲第39番 変ホ長調 K.543:ロンドン交響楽団 1951年12月録音
- 交響曲第31番 ニ長調 K.297 「パリ」:ロンドン交響楽団 1951年12月録音
- 交響曲第40番 ト短調 K.550:ロンドン交響楽団 1953年3月録音
このロンドン響との録音はウィーン風の典雅さに溢れたモーツァルトになっています。
モーツァルトの交響曲というのは本質的にはオペラの延長線上にある音楽です。ですから、ザッハリヒカイトなスタイルで演奏すれば、その道ばたに咲いている美しい花を見落としてしまいます。
クリップスはそう言う花を丹念に一つずつ愛でながら歩みをすすめていきます。
おそらく、こういうスタイルこそがワルター以来の伝統的なモーツァルト演奏なのでしょう。
ところが、53年に録音されたト短調シンフォニーは全く様子が異なっていて、まさにザッハリヒカイトなモーツァルトに変貌してしまっているのです。最初の音が出ただけですっかり驚いてしまって、後はもうあれよあれよという間に終わってしまった感じで、それはたとえてみれば道ばたに咲いている花などは全て踏みしだいていったような風情なのです。
いったい何が起こったのかと訝しく思ったのですが、ふと気づいたのが、この時期を境に彼の活動の拠点がヨーロッパからアメリカに移ったことでした。
つまりは、どうにもヨーロッパでは期待したようなポストは得られないので、アメリカで一旗揚げようと動き始めた時期と重なるのです。
そう言えば、カルショーはクリップスのことを「日和見主義者」と断じていました。
始めて読んだときはそこまで言わなくてもいいのにと思ったのですが、こういう録音を聞かされるとそう言う面もあったのかなと思ってしまいます。
ただし、ワルターやベームがこの世を去ってしまうと、こういうスタイルが一般的になっていくのであって、そう言うライン上に置いてみれば、これは驚くほどに時代を先取りした音楽になっているのです。
やはり、このおじさんは一筋縄ではいかない人だったようです。(ちなみに、最晩年のコンセルトヘボウとの録音では再び典雅なスタイルに戻っていました)
モーツァルトの交響曲作品の概要
モーツァルトを理解しようと思えば、まず最初に聴くべきはオペラです。その次となれば、おそらくは彼の第2言語とも言うべきピアノの作品を聴くべきでしょう。
ですから、交響曲はモーツァルトにとっては大切なことを語る場ではない傍流に属するジャンルだったといえます。
しかし、モーツァルトが凄いのは、その様な傍流に属するジャンルにおいても、交響曲の生みの親と称されるハイドンを上回るような成果を残したことです。
「モーツァルトが最初の無邪気なシンフォニー(K.16)から、ジュピター=シンフォニーと名付けられれているハ長調シンフォニー(K.551)に至るまでにたどった道は、ハイドンの最初のシンフォニーから最後のロンドン=シンフォニーに至る道よりもはるかに遠いのである。」(アインシュタイン)
可哀想なハイドン!!
モーツァルトの交響曲を概観しようと思えば、何をもって交響曲とするのかという問題があります。
一般的には彼の最後のシンフォニーには41番という番号がふられていますから、全部で41作品と思われているのですが事はそれほど単純ではありません。まずは、旧全集ではいくつかの偽作にも番号が割り振られていますから、これらを排除する必要があります。次に、番号が割り振られていないのですが、今日のとらえ方から言えば交響曲と認定できるものがいくつかありますから、それらの作品を追加する必要があります、
まず、偽作の排除ですが、これは問題がありません。以下の3作品を排除します。
- K.17:交響曲第2番 変ロ長調・・・偽作
- K.18:交響曲第3番 変ホ長調・・・K.F.アーベルの交響曲を編曲したもの
- K.444:交響曲第37番ト長調・・・ミヒャエル・ハイドン作の交響曲に序奏部をつけて演奏したものをモーツァルト作と誤ったもの
次に、番号が割り振られていないけれども、交響曲と認めるものを数え上げるのですが、これが非常に厄介です。
長らくスタンダードの位置にあったベーム&ベルリンフィルによる全集では9つ追加して全体で47曲となっています(41-3+9=47)。
これに対して、モーツァルト研究の第一人者と言われるニール・ザスローなどはいくつかのセレナードやオペラ序曲なども数え入れて57曲までにふくれあがっています。(ホグウッド指揮の全集)
しかし、私のような人間にはこの辺の詳しい事情を解説する能力はありませんので、とりあえずはベーム盤にしたがって47曲を概観することにします。
モーツァルトの交響曲を以下の3つのグループに分けることにはあまり異存はないと思います。
- 神童モーツァルトの子ども時代の作品・・・初期交響曲(20曲)
- ザルツブルグにおける宮仕え時代の作品・・・ザルツブルグ交響曲(17曲)
- パリ旅行からザルツブルグとの訣別、そしてウィーン時代の作品・・・後期交響曲(10曲)
神童モーツァルトの子ども時代の作品・・・初期交響曲
子ども時代の交響曲は神童モーツァルトの演奏旅行と密接に関わっていました。彼が、演奏旅行でヨーロッパ各地を旅行し、それぞれの土地で最新の音楽事情にふれるたびにそれらを己の中に取り込んでいきました。その演奏旅行は、長い間、父レオポルドが金儲けのために息子のヴォルフガングを連れましたように言われてきました。しかし、最近ではヴォルフガングのために綿密に計画された教育のためだったと理解されています。
確かに、モーツァルトは並ではない天分を持って生まれてきました。しかし、その天分も父レオポルドによる綿密に計画された「英才教育」がなければ、二十歳すぎればただの人になっていたかもしれません。
その意味で、初期交響曲を聴く楽しみは、ヨーロッパ各地で様々な形で芽生え始めた交響曲という音楽形式をモーツァルトがどのように受容して(または、何を拒否して)、それらを己の中に取り込んでいったかを眺めることに尽きます。
子ども時代のモーツァルトは父に連れられて大きな旅行を4回行っています。ですから、交響曲を概観するときはこの4つの旅行に沿って概観することが必要です。
<初めての演奏旅行(1763年~1766年)ミュンヘン、フランクフルト、パリ、ロンドン>
- 交響曲第1番 変ホ長調 K.16
- 交響曲 ヘ長調 K.A.223(1981年に楽譜が発見され真作と確定)
- 交響曲第4番 ニ長調 K.19
- 交響曲第5番 変ロ長調 K.22
- 交響曲 ト長調 "Old Lambach" K.A.221(これにまつわる話を始めるととても長くなるのですが、結論だけ言えばザスロー先生のご尽力で真作として確定しました^^)
神童モーツァルトの名をヨーロッパ中に広めた最初の演奏旅行ですが、この演奏旅行の途中において64年の暮れから65年の初めにかけて滞在したロンドンにおいて最初の交響曲(第1番 変ホ長調 K.16)が書かれます。
書くきっかけとなったのは、父レオポルドがロンドンで病気のために臥せってしまい、することがなくなって手持ちぶさたになったモーツァルトが暇つぶしに書いたという話が伝わっています。
もちろん真偽のほどは定かではありません。何故ならば、レオポルドはザルツブルグの家主であるハーゲナウアー宛てに演奏会を開くことを伝え、その中で「交響曲はすべてヴォルフガングが書いたものです」と記しているからです。おそらくは、今までの「教育」の成果を確かめるとともに興行的な成功も当て込んでモーツァルトにこの課題を与えたと見る方が妥当なのではないでしょうか。
この時期の交響曲は10才にも満たない「子ども」時代の作品なのですから、それほど多くのものを期待されても困るでしょう。しかし、それでも第1番の交響曲においてすら、明るく無邪気なだけの音楽ではなく、後のモーツァルトを予感させるような影が走る場面があることも事実です。
それでもなお、これらをもってモーツァルトを天才と断ずるのは明らかに誤りです。10才にも満たない「子ども」がこのような交響曲を書いたことを持って「天才」と呼ぶのならば、それはあまりにも音楽史に疎いと言わざるを得ません。実際、ロッシーニを初めとしてこのような「早熟」の子どもは何人も指摘できます。モーツァルトが天才だと言われるのは、ただ単に「早熟」だったからだけでなく、この地点から誰も考えつかないほどに遠くまで歩き通したからです。その事は、最初に紹介したアインシュタインの言葉にすべてが語られています。
<ウィーン旅行(1767年~1769年)>
- 交響曲 ヘ長調(第43番) K.76(真作かどうかについて見解が分かれている)
- 交響曲第6番 ヘ長調 K.43
- 交響曲第7番 ニ長調 K.45
- 交響曲 変ロ長調(第55番) K.A.214(真作とされているが一次資料は失われているので疑問は残る)
- 交響曲第8番 ニ長調 K.48
- 交響曲第9番 ハ長調 K.73(75a)
モーツァルト父子は西方への大旅行からザルツブルグに帰郷したのは1766年の11月26日だったと伝えられています。そして、彼らはその翌年の9月には早くもウィーンへの演奏旅行へと出発していきます。彼らは、ウィーンを中心として活発に演奏活動を続け、この旅行も1769年1月までの長きに達します。
モーツァルトはこの旅行において、前古典派と呼ばれるヴァーゲンザイルやモンなどの作風を学び、さらには規模の大きなウィーンのオーケストラも念頭に置いてトランペットやティンパニーも追加された4楽章構成の交響曲を初めて書きます。言うまでもなく、このスタイルこそがハイドンとモーツァルトによって「交響曲」というジャンルに昇華されていくことになるのです。
<第1回イタリア旅行(1769年~1771年)>
- 交響曲 ニ長調(第44番) K.81(最近はレオポルドの作とする説が有力)
- 交響曲 ニ長調(第47番) K.97(真作とされているが一次資料は失われているので疑問は残る)
- 交響曲 ニ長調(第45番) K.95(真作とされているが一次資料は失われているので疑問は残る)
- 交響曲第11番 ニ長調 K.84(自筆譜がないために疑問は残るが、様式研究などから真作とされている)
- 交響曲第10番 ト長調 K.74
ウィーンでの長逗留を突然に切り上げたレオポルドは同じ年の12月にいよいよという感じで「音楽の国、イタリア」へと向かいます。このあたりの旅行計画も冷静な目で眺めてみれば実に周到に計画されたエリート教育であることに気づかされます。
ただし、この旅行で書かれた交響曲は正直言って面白味に欠けるものばかりです。また、自筆譜がほとんど失われているために真偽の判定も未だに藪の中というものが少なくありません。
また、当時のイタリアのシンフォニアではメヌエット楽章を持たない3楽章構成が基本なのですが、モーツァルトの手になるこれらの「イタリア交響曲」はメヌエット楽章を持つ4楽章構成となっています。そのために、学者の中にはそれらのメヌエット楽章は後から追加されたものだという説を唱える人もいますが、これもまた藪の中です。しかし、モーツァルトは書簡の中で「ドイツのメヌエットをイタリアに紹介しなければいけない」と述べていますから、その言葉を額面通りに受け取ればドイツ風のメヌエットをイタリアに紹介するためにあえてこのような形式にしたということも納得できます。
<第2回イタリア旅行<(1771年)>
- 交響曲 ヘ長調(第42番) K.75(様式的にも偽作の疑いが強いとされる)
- 交響曲第12番 ト長調 K.110
- 交響曲 ハ長調(第46番) K.96
- 交響曲第13番 ヘ長調 K.112
第1回のイタリア旅行から戻ってわずか5ヶ月ほどでモーツァルトは2回目のイタリア旅行に出発します。今度は、ミラノの宮廷からオペラの作曲と演奏を依頼されてのものでした。ですから、今回は第1回の旅行のようにイタリア各地を巡るのではなく、基本的にミラノでの長逗留というのが実態でした。この逗留は71年8月から12月までと、72年10月から73年3月までの2回に分けられます。ちょうど高校生程度の最も多感な時代を音楽の国であるイタリアにおいて、その音楽の中にどっぷりとつかるような生活をおくったことはモーツァルトの「天才」をより確かなものとしたはずです。
わずか9才で交響曲を書いた早熟な子どもは、ただの早熟で終わることなく、本当の意味での「天才モーツァルト」への歩みをはじめたのです。
ザルツブルグにおける宮仕え時代の作品・・・ザルツブルグ交響曲
ミラノでのオペラの大成功を受けて意気揚々と引き上げてきたモーツァルトに思いもよらぬ事態が起こります。それは、宮廷の仕事をほったらかしにしてヨーロッパ中を演奏旅行するモーツァルト父子に好意的だった大司教のシュラッテンバッハが亡くなったのです。そして、それに変わってこの地の領主におさまったのがコロレードでした。コロレードは音楽には全く関心のない男であり、この変化は後のモーツァルトの人生を大きな影響を与えることになることは誰もがご存知のことでしょう。
それでも、コロレードは最初の頃はモーツァルト一家のその様な派手な振る舞いには露骨な干渉を加えなかったようで、72年10月には3回目のイタリア旅行、さらには翌年の7月から9月にはウィーン旅行に旅立っています。そして、この第2回と第3回のイタリア旅行のはざまで現在知られている範囲では8曲に上る交響曲を書き、さらに、イタリア旅行とウィーン旅行の間に4曲、さらにはウィーンから帰って5曲が書かれています。これら計17曲をザルツブルグ交響曲という呼び方でひとまとめにすることにそれほどの異論はないと思われます。
<ザルツブルク(1772年)>
- 交響曲第14番 イ長調 K.114
- 交響曲第15番 ト長調 K.124
- 交響曲第16番 ハ長調 K.128
- 交響曲第18番 ヘ長調 K.130
- 交響曲第17番 ト長調 K.129
- 交響曲第19番 変ホ長調 K.132
- 交響曲第20番 ニ長調 K.133
- 交響曲第21番 イ長調 K.134
K128?K130は5月にまとめて書かれ、さらにはKK132とK133Kは7月に書かれ、その翌月には134が書かれています。これらの6曲が短期間に集中して書かれたのは、新しい領主となったコロレードへのアピールであったとか、セット物として出版することを目的としたのではないかなど、様々な説が出されています。他にも、すでに予定済みであった3期目のイタリア旅行にそなえて、新しい交響曲を求められたときにすぐに提出できるようにとの準備のためだったという説も有力です。ただし、本当のところは誰も分かりません。
この一連の交響曲は基本的にはハイドンスタイルなのですが、所々に先祖返りのような保守的な作風が顔を出したと思えば(K129の第1楽章が典型)、時には「first great symphony」と呼ばれるK130の交響曲のようにフルート2本とホルン4本を用いて、今までにないような規模の大きな作品を仕上げるというような飛躍が見られたりしています。
アインシュタインはこの時期のモーツァルトを「年とともに増大するのは深化の徴候、楽器の役割がより大きな自由と個性に向かって変化していくという徴候、装飾的なものからカンタービレなものへの変化の徴候、いっそう洗練された模倣技術の徴候である」と述べています。
<ザルツブルク(1773年~1774年)>
- 交響曲第22番 ハ長調 K.162
- 交響曲第23番 ニ長調 K.181
- 交響曲第24番 変ロ長調 K.182
- 交響曲第25番 ト短調 K.183
- 交響曲第27番 ト長調 K.199
- 交響曲第26番 変ホ長調 K.184
- 交響曲第28番 ハ長調 K.200
- 交響曲第29番 イ長調 K.201
- 交響曲第30番 ニ長調 K.202
アインシュタインは「1773年に大転回がおこる」と述べています。
1773年に書かれた交響曲はナンバーで言えば23番から29番にいたる7曲です。このうち、23・24・27番、さらには26番は明らかにオペラを意識した「序曲」であり、以前のイタリア風の雰囲気を色濃く残したものとなっています。しかし、残りの3曲は、「それらは、---初期の段階において、狭い枠の中のものであるが---、1788年の最後の三大シンフォニーと同等の完成度を示す」とアインシュタインは言い切っています。
K200のハ長調シンフォニーに関しては「緩徐楽章は持続的であってすでにアダージョへの途上にあり、・・・メヌエットはもはや間奏曲や挿入物ではない」と評しています。そして、K183とK201の2つの交響曲については「両シンフォニーの大小の奇跡は、近代になってやっと正しく評価されるようになった。」と述べています。そして、「イタリア風シンフォニーから、なんと無限に遠く隔たってしまったことか!」と絶賛しています。そして、この絶賛に異議を唱える人は誰もいないでしょう。
時におこるモーツァルトの「飛躍」がシンフォニーの領域でもおこったのです。そして、モーツァルトの「天才」とは、9才で交響曲を書いたという「早熟」の中ではなく、この「飛躍」の中にこそ存在するのです。
パリ旅行からザルツブルグとの訣別、そしてウィーン時代の作品・・・後期交響曲
「飛躍」を成し遂げたモーツァルトは、交響曲を「連作」することは不可能になります。
「モーツァルトの胸中には、シンフォニー的なものの新しい概念が発展したからである。この概念は、もはや「連作」作曲を許さず、単独作品の作曲だけを可能にするのである」(アインシュタイン)
モーツァルトは73年から74年にかけての多産の時期を過ぎると交響曲に関してはぴたりと筆が止まります。それは基本的には領主であったコロレードがモーツァルトの演奏旅行を「乞食のように歩き回っている」として制限をかけたことが一番の理由ですが、内面的には上述したような事情もあったものと思われます。
そんなモーツァルトが再び交響曲を書き出すのは、日々強まるコロレードからの圧力を逃れるための「就職先探し」の旅が契機となります。
モーツァルトとコロレードの不仲は1777年に臨界点に達し、ついにクビになってしまいます。そして、モーツァルトはこのクビを幸いとして就職先探しのための旅に出かけます。
しかし、現実は厳しく、かつては「神童モーツァルト」としてもてはやした各地の宮廷も、ザルツブルグの大司教に遠慮したこともあって体よく就職を断られていきます。期待をしたミュンヘンもマンハイムも断られ、最後の望みであったパリにおいても神童であったモーツァルトには興味は持ってくれても、大人の音楽家となったモーツァルトには誰も見向きもしてくれませんでした。そして、その旅の途中で母を亡くすという最悪の事態を迎え、ついにはコロレードに詫びを入れて復職するという屈辱を味わうことになります。
しかし、この困難の中において、モーツァルトは己を売り出すためにいくつかの交響曲を書きます。
<パリ・ザルツブルグ(1778年~1780年)>
交響曲第31番 ニ長調 "Paris" K.297
交響曲第32番 ト長調 K.318
交響曲第33番 変ロ長調 K.319
交響曲第34番 ハ長調 K.338
通称「パリシンフォニー」と呼ばれるK297のシンフォニーは典型的な2管編成の作品で、モーツァルトの交響曲の中では最も規模の大きな作品となっています。それは、当時のパリにおけるオーケストラの編成を前提としたものであり、冒頭の壮大なユニゾンもオケの力量をまず初めに誇示するために当時のパリでは常套手段のようにもいられていた手法です。また、この作品を依頼した支配人から転調が多すぎて長すぎると「ダメ出し」がだされると、それにしたがって第2楽章を書き直したりもしています。
何とかパリの聴衆に気に入られて新しい就職先を得ようとするモーツァルトの涙ぐましい努力がかいまみられる作品です。
しかし、先に述べたようにその努力は報いられることはなく、下げたくない頭を下げてザルツブルグに帰って教会オルガニストをつとめた79年から80年にかけての2年間は、モーツァルトの生涯においても精神的に最も苦しかった時代だと言えます。その証拠に、モーツァルトの生涯においてもこの2年間は最も実りが少ない2年間となっています。そのため、この2年間に書かれた32番から34番までの3曲は再び「序曲風」の衣装をまとうことになります。おそらくは、演奏会などを開けるような状態になかったことを考えれば、これらの作品はおそらくどこかの劇団からの依頼によって書かれたものと想像されています。
<ウィーン(1782年~1788年)>
交響曲第35番 ニ長調 "Haffner" K.385
交響曲第36番 ハ長調 "Linz" K.425
交響曲第38番 ニ長調 "Prague" K.504
交響曲第39番 変ホ長調 K.543
交響曲第40番 ト短調 K.550
交響曲第41番 ハ長調 "Jupiter" K.551
1781年にモーツァルトは再びコロレードと決定的な衝突を引き起こし、ついにザルツブルグと訣別してウィーンへと向かいます。今度は以前のようにどこかで就職先を得ようというのではなく、全くのフリーの音楽家として腕一本で生きていくことを決意しての旅立ちでした。
この時に、本当の意味で「音楽家モーツァルト」が誕生したと言えます。
そして、「音楽家モーツァルト」が残した最後の6つの交響曲は、ハイドンが到達した地点よりもはるか先へと進んでしまったことは疑いありません。そして、最後の3つのシンフォニーにおいて、音楽はついに何かの目的のために生み出される機会音楽ではなくて、音楽それ自体に存在価値があると訴える芸術作品へと飛躍していったのです。
「モーツァルトは最後の3曲のシンフォニーを指揮したことも、聞いたこともなかったかもしれない。しかし、そのことはおそらく、音楽と人類の歴史におけるこれらのシンフォニーの位置を象徴する事実である。もはや注文もなく、直接の意図もない。あるのは永遠への訴えである」(アインシュタイン)