クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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ベートーベン:交響曲第8番


クナッパーツブッシュ指揮 ベルリンフィル 1952年1月27日録音をダウンロード

  1. ベートーベン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93「第1楽章」
  2. ベートーベン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93「第2楽章」
  3. ベートーベン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93「第3楽章」
  4. ベートーベン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93「第4楽章」

谷間に咲く花、なんて言わないでください。



初期の1番・2番をのぞけば、もっとも影が薄いのがこの8番の交響曲です。どうも大曲にはさまれると分が悪いようで、4番の交響曲にもにたようなことがいえます。

 しかし、4番の方は、カルロス・クライバーによるすばらしい演奏によって、その真価が多くの人に知られるようになりました。それだけが原因とは思いませんが、最近ではけっこうな人気曲になっています。

 たしかに、第一楽章の瞑想的な序奏部分から、第1主題が一気にはじけ出すところなど、もっと早くから人気が出ても不思議でない華やかな要素をもっています。

 それに比べると、8番は地味なだけにますます影の薄さが目立ちます。

 おまけに、交響曲の世界で8番という数字は、大曲、人気曲が多い数字です。

 マーラーの8番は「千人の交響曲」というとんでもない大編成の曲です。
 ブルックナーの8番についてはなんの説明もいりません。
 シューベルトやドヴォルザークの8番は、ともに大変な人気曲です。

 8番という数字は野球にたとえれば、3番、4番バッターに匹敵するようなスター選手が並んでいます。そんな中で、ベートーベンの8番はその番号通りの8番バッターです。これで守備位置がライトだったら最低です。

 しかし、ユング君の見るところ、彼は「8番、ライト」ではなく、守備の要であるショートかセカンドを守っているようです。
 確かに、野球チーム「ベートーベン」を代表するスター選手ではありませんが、玄人をうならせる渋いプレーを確実にこなす「いぶし銀」の選手であることは間違いありません。

 急に話がシビアになりますが、この作品の真価は、リズム動機による交響曲の構築という命題に対する、もう一つの解答だと言う点にあります。
 もちろん、第1の解答は7番の交響曲ですが、この8番もそれに劣らぬすばらしい解答となっています。ただし、7番がこの上もなく華やかな解答だったのに対して、8番は分かる人にしか分からないと言う玄人好みの作品になっているところに、両者の違いがあります。

 そして、「スター指揮者」と呼ばれるような人よりは、いわゆる「玄人好みの指揮者」の方が、この曲ですばらしい演奏を聞かせてくれると言うのも興味深い事実です。
 そして、そう言う人の演奏でこの8番を聞くと、決してこの曲が「小粋でしゃれた交響曲」などではなく、疑いもなく後期のベートーベンを代表する堂々たるシンフォニーであることに気づかせてくれます。


つかみ所のない人


正直いって圧倒されました。これほどスケールの大きな音楽を作り出す人といえばフルトヴェングラーぐらいのものでしょうが、作り出される音楽は質的には全く異なります。そんなこと、今さら言われなくても分かっている!とお叱りを受けそうですが、今回、クナによる一連のベートーベン(2番:ブレーメンフィル・3番:ミュンヘンフィル&ブレーメンフィル・8番:ベルリンフィル)演奏をまとめて聞いてみて、その当たり前のことを改めて確認させられました。

以前、ユング君はフルトヴェングラーに関して次のように書いたことがあります。(フルトヴェングラーへの戯言

「まずはじめにユング君なりの結論を簡潔に述べると、フルヴェンの本質は演出家だと思います。
 彼は音楽を指揮すると言うよりは、音楽によるドラマを演出しているという方が本質に近いように思います。」
この考えは今も全く変わっていません。
しかし、
「フルトヴェングラーの演奏というものは、考え抜かれ、計算され尽くした演奏ではなかったと思います。むしろ、それとは対極にあるような本能的な(?!)演奏でした。
 それ故に、フルトヴェングラーの演奏芸術を論理的に説明しようとすることはある意味では不可能でした。おそらくフルトヴェングラー自身でさえ不可能だったはずです。
 彼は何も考えず、オケの前に立って指揮棒を振り下ろせば、それはそのままでフルヴェンの芸術だったのです。」
と、書いた部分については全面的に誤りを認めなければなりません。

あの文章を書いてから3年間、かなりの数のフルトヴェングラーの録音を聞いてきましたが、聞けば聞くほどにフルトヴェングラーの演奏というのは緻密な楽曲分析の上に成り立った周到に設計され考え尽くされたものだと結論せざるを得ませんでした。「フルトヴェングラーの演奏というものは、考え抜かれ、計算され尽くした演奏ではなかったと思います。むしろ、それとは対極にあるような本能的な(?!)演奏でした。」とは、全く馬鹿なことを書いたものです。
フルヴェンの失敗演奏の特徴は「崩壊」です。
もし、フルヴェンの演奏の本質が「本能」にあるのならば、あそこまでの崩壊現象は説明できません。そうではなくて、彼の演奏の本質が緻密な分析と設計に依拠しているからこそ、小さな綻びが時として全面的な崩壊に発展してしまうのだと言えます。
フルトヴェングラーを神格化するのは愚かだといっておきながら、そう言っていたユング君自身がフルトヴェングラーを神格化していたのです。フルトヴェングラーの演奏は十分に説明可能なものですし、そのスタイルを受け継ぐことも可能だと思います。一部の指揮者の中でその様な動きがあることを「フルヴェンの猿まね」みたいな言い方をする人もいますが、それは間違いではないかと思います。

そこでクナの演奏です。
彼の作り出す音楽のスケールの大きさは、フルヴェンのような緻密な分析と設計によってもたらされたものではないように思います。それは、クナを聞いていて、「変てこ」な演奏には数多く出会うのですが、フルヴェンのように「崩壊」してしまった演奏というのは思いつかないからです。
つまり、フルヴェンの失敗は時として「崩壊」にまで至るのですが、クナの失敗は「崩壊」とまではいかず、「変てこ」なものができあがるレベルで踏みとどまるのです。そして、これが重要なことなのですが、その「変てこな演奏」が全くの失敗かというとそうとは言い切れず、一部にはその「変てこ」ぶりをこよなく愛する人たちが存在すると言うことです。

たとえば、今回アップした二つのエロイカ演奏がその好例だといえます。
明らかにブレーメンフィルとの録音は「変てこ」です。おそらく数多く存在するクナの「変てこ演奏」の中でもかなり上位にランクされるであろう「変てこ」ぶりです。ミュンヘンフィルとの演奏も、前半の2楽章は実にすばらしいのですが、後半の2楽章になると恣意的といえるようなデフォルメが顔を出そう、出そうとします。
さて問題は、この変てこなエロイカなのですが、ブレーメンフィルとの演奏は基本的には失敗だと思うのですが、それでも変な魅力があるので困ってしまいます。ミュンヘンフィルとの演奏に関しても、オケに対するコントロールが最後まで維持できていないように思うのですが、しかし、結果として「変てこ」が「顔を出そう!」という範疇に踏みとどまっているので、3楽章のホルンのずっこけぶりはマイナスポイントだとしても、総体としては立派なエロイカとして仕上がっています。

どうやら、クナという人は「音楽を把握する最小単位」が常人とは異なるようなのです。普通の指揮者ならば、ある範囲内でオケをコントロールしていかないと滅茶苦茶になってしまうのに、クナはそれよりは大きな単位で音楽を把握しているので、一見するとオケが好き勝手に演奏しているように見えながら大局的にはクナの掌中に収まっているという雰囲気なのです。ただし、「音楽を把握する最小単位」というのは、実に感覚的な造語であって、その内実は言っている本人もよく分かっていないのです。

組織を引っ張っていくときに、細かい報告を部下に求めて、それをきちんと把握しながら的確な指示をテキパキと出しながら業務を遂行していく人は「やり手」と言われます。しかし、ごく一部ですが何もしていないように見えるリーダーが存在します。その大部分が見かけと同じように中身も全く無能であることが多いのですが、きわめて極まれに、部下に裁量権をゆだねてその能力と意欲を存分に引き出しながら大局として求められる方向に誤りなく導いていくというリーダーが存在します。
クナというのはそう言うタイプのリーダーかな?と愚にもつかないことを考えるユング君です。
ちなみに、ブレーメンフィルとの2番とベルリンフィルとの8番は文句なしにすばらしいです。ベートーベンの作品の中では影の薄いこの二作品が、かくも偉大なシンフォニーであったのかと目を覚まさせてくれます。
このようなベートーベンを聞かせてくれる人はクナ以外には思いつきません。

どうやらその芸術を受け継ぐべきものがいなかったのはフルトヴェングラーではなくてクナッパーツブッシュだったのかもしれません。