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モーツァルト(ブルメスター編):メヌエットNO.1
(Vn)エリカ・モリーニ (P)レオン・ポマーズ 1956年録音をダウンロード
この愛らしいメヌエットにおいても、、若きモーツァルトの優れた才能の発露十分に認めることが出来る
この作品は一般的に「モーツァルトのメヌエット」と呼ばれて、ヴァイオリンやピアノ単独でよく演奏されるのですが、原曲は「ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 K.334(320b)」の第3楽章である「メヌエット」です。
この「ディヴェルティメント 第17番 ニ長調」は「ロビニッヒ・ディヴェルティメント」と呼ばれることもあります。そして、この作品と、いわゆる「ロドロン・セレナーデ」と呼ばれることのある「K.247」と「K.287」の3曲を上げて、アインシュタインは「音楽の形式をとった最も純粋で、明朗で、この上なく人を幸福にし、最も完成されたもの」だと高く評価しています。
とりわけ、 K.334の「ロビニッヒ・ディヴェルティメント」に関しては「2番目の緩徐楽章はヴァイオリンのためのコンチェルト楽曲であって、独奏楽器がいっさいの個人的なことを述べたてるが、伴奏も全然沈黙してしまわないという『セレナード』の理想である。」と絶賛しています。
つまりは、それらのディヴェルティメントは若きモーツァルトの才能の最も優れた発露であり、その発露はこの愛らしいメヌエットにおいても十分に認めることが出来るのです。
古き良きヨーロッパの象徴のような女性の目に映じた「滅び行くヨーロッパの姿」
エリカ・モリーニと言えば、その背筋の伸びた清冽な音楽がすぐにイメージされます。そして、彼女こそは古き良きヨーロッパの象徴のようなヴァイオリニストでした。
その経歴を見てみれば、20世紀の初頭にオーストリアに生まれ,、わずか14才にしてベルリン・フィルやゲヴァントハウス管弦楽団と共演して衝撃的なデビューをはたしています。父はヨアヒムの系列をくむヴァイオリニストであり、彼女もまた生粋のウィーンが生んだヴァイオリニストでした。
しかし、1938年にナチスの迫害を逃れてアメリカに渡り、その後はニューヨークを拠点として音楽活動を続けることになってしまうのですが、それでも多くの亡命演奏家たちのようにアメリカという新しい社会の価値観に迎合することはありませんでした。彼女のレパートリーはウィーン古典派からブラームスなどのロマン派の作品あたりに限られていて、そう言う基本的なスタンスを彼女はアメリカに移っても頑固なまでに崩さなかったのです。
そんな彼女の目に、戦争に巻き込まれ、あらゆる美しい伝統と文化が破壊され、焼き尽くされていく現実はどのように映ったのでしょう。
確かに、戦後に残された彼女の数少ない録音を聞けば、それでも彼女は凛と背筋を伸ばしているように見えます。
しかし、彼女にしては珍しいレパートリーと思われる幾つかの小品の録音を聞いたときに、そう言うけなげなモリーニとは全く違う姿にふれて呆然としたのです。
そこには、疑いもなく、モリーニという古き良きヨーロッパの象徴のような女性の目に映じた「滅び行くヨーロッパの姿」そのものが刻み込まれていました。
そして、そこでは老いた没落貴族の女性が、過ぎ去った栄光の過去を思い出しながら一人でダンスを踊っているような光景が浮かんでくるのです。
そして、それはどこかで観た映画の一シーンであったような記憶があるのですが、タイトルがどうしても思い出せないのです。もしかしたら、そんなシーンがあったというのは私の妄想かもしれませんが。
いや、そう言う曖昧な映像を引き合いに出すよりも、このモリーニの音楽こそはヨーロッパの没落を見事に描ききっています。
もちろん、言うまでもないことですが、戦争によってどれほど痛めつけられても「現実のヨーロッパ」は滅びることはなく再び蘇っていくのですが、そしてその事をモリーニもまた理解していたのでしょう。しかし、そうして蘇った「新しいヨーロッパ」は彼女にとってはそれはもう全く別のヨーロッパであったのです。
それはすべてのものが消えてなくる事よりも、さらに大きな喪失感を彼女に感じさせたことは容易に想像できます。
<追記>
難波のタワーレコードにはよく顔を出すのですが、最近はもっとも目立つ入り口のところがアナログ・レコードのコーナーになっています。アメリカほどではないにしても、日本でもアナログ・レコードの復権はジワジワ進行しているようです。
そして、驚いたのは、そのアナログ・レコードの売り場の一番目立つところに、このエリカ・モリーニの「小品集」の復刻盤が飾られていたことです。「Erica Morini Plays」と題されて1955年に発行された古いレコードが復刻されていたことにも驚きましたが、それが売り場の一番目立つ場所に置かれていると言うことにも驚かされました。
それは、逆から見れば、今の少なくない人々がどのような音楽を求めているかのあらわれでもあると感じました。