クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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ワーグナー:ジークフリート牧歌


ウィレム・ヴァン・オッテルロー指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1951年6月18日~25日録音をダウンロード

  1. Wagner:Sigfried Idyll

階段の音楽



この作品の誕生に関わるエピソードはあまりにも有名です。

ジークフリート牧歌は、1870年、晴れて自分の妻となったコジマへの誕生日プレゼントとして創作されました。しかし、コジマの誕生日までそのプロジェクトは極秘であり、練習も家族に知られないように行われたと言います。
そして、誕生日当日の朝、コジマは美しい音楽で目をさますことになります。階段に陣取った17名の演奏家とワーグナーによる彼女へのプレゼントが同時に世界初演となったわけです。
そして、音楽が終わると、ワーグナーはうやうやしく総譜をコジマに手渡したと言います。

なかなかやるもんです。
そして、コジマと子供たちはこの作品を「階段の音楽」と呼んで何度も何度もアンコールしたと言うエピソードも伝わっています。

こういうお話を聞くとワーグナーってなんていい人なんだろうと思ってしまいます。しかし、事実はまったく正反対で、音楽史上彼ほど嫌な人間はそういるものではありません。(-_-;)おいおい

ただ、コジマとの結婚をはたし、彼女とルツェルンの郊外で過ごした数年間は彼にとっては人生における最も幸福な時間でした。そして、その幸福な時代の最も幸福なエピソードにつつまれた作品がこのジークフリート牧歌です。
それ故にでしょうか、この作品はワーグナーの作品の中では最も幸福な色彩に彩られた作品となっています
こういうのを聴くと、つくづくと人格と芸術は別物だと思わせられます。


重量感にあふれた手応え十分の音楽を聞かせてくれる


「ウィレム・ヴァン・オッテルロー」と言う指揮者の知名度はかなり低いかと思われます。調べてみれば、このサイトでも1951年に録音された幻想交響曲がアップされているだけです。
そして、その音源を紹介する中でも「フルトヴェングラー統治下のベルリンフィルがフルトヴェングラー以外の指揮者を相手にどんな演奏を展開していたのかという興味のもとにあれこれ音源を探っていて出会ったのがこのオッテルローでした。まあそんなことでもなければまっすぐにオッテルローにたどり着くという人はほとんどいないでしょう。」等と書いていたほどでした。(^^:

そして、その知名度は10年以上前に1951年録音の幻想交響曲をアップしたときと較べてみてもほとんど変わりはないでしょう。
ちなみに、ここで紹介している「ジークフリート牧歌」と「幻想交響曲」の録音クレジットはともに「1951年6月18日~25日録音」となっています。おそらくメインは「幻想交響曲」であり、それが予想以上に早く録音が終了したので、残された時間でこの「ジークフリート牧歌」が録音されたのかもしれません。

しかしながら、「知名度」と「実力」は必ずしも比例はしません。
例えば、すでにアップしてある1951年録音の「幻想交響曲」などはまさに切れば血が飛び散りそうなほどに熱い演奏でありながら、音楽の形を崩してしまわないオッテルローの強い統率力を見事に示していたからです。
1950年代の初頭にこのレベルでこの交響曲を仕上げるというのはただ者ではありません。

それから、もしかしたらその「ついで」のように録音されたかもしれない「ジークフリート牧歌」なのですが、これもまた見事なもので、実に重量感にあふれる手応え十分の音楽を聞かせてくれます。
オッテルローは1907年生まれですから、この時は40代前半のバリバリの若手指揮者だったわけです。そんな若手の指揮者がフルトヴェングラーが君臨していたベルリンフィルに出向いてスタジオ録音を行ったのですから、考えてみれば大したものです。

そして、その緊張感の中においても、自分なりの音楽を貫いているのですから、大した度胸です。
表現の基本はテンポを自由に動かして音楽の巨大さを誇示するのではなくて、剛毅ともいえるほどに男性的なもので、ズッシリとした重みのあり響きでグイグイと音楽を造形していきます。そして、その要求にこたえて、ベルリンフィルも実に中身の詰まったよい響きを聞かせてくれています。
ただし、グイグイの一直線では音楽は単調になりますから、ここぞという場面に来るとフッと肩の力を抜いて「牧歌」に相応しい「柔らかな表情」もみせてくれるのが実にチャーミングです。
その硬軟の使い分けも見事なものです。

オランダという国はコンセルトヘボウ以外になると入ってくる情報が少なくなるので、その生涯の大部分を「ハーグ・レジデンティ管弦楽団」という楽団とすごしたオッテルローの活躍が極東の島国に伝わってくることはほとんどありませんでした。しかし、彼の録音を少しずつまとめて聞いてくると、これもまた無視してはいけない存在であることをに気づかせてくれます。

そして、負け惜しみではないのですが、著作隣接権の延長によって新しくパブリック・ドメインとなる音源が増えないと言うことが、逆にその様な指揮者にも光を当てる余裕が与えられると言うことにつながります。
そう考えれば、とんでもないマイナスもプラスに転化できる要素を持っていると言うことです。
大切なことはその転換を実現できるだけの能力が私にあるかどうかなのでしょう。