クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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ベートーベン:交響曲第1番ハ長調 作品21


ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1952年11月29日録音をダウンロード

  1. Beethoven:Symphony No.1 in C major ,Op.21 [1.Adagio Molto; Allegro Con Brio]
  2. Beethoven:Symphony No.1 in C major ,Op.21 [2.Andante Cantabile Con Moto]
  3. Beethoven:Symphony No.1 in C major ,Op.21 [3.Menuetto; Allegro Molto E Vivace]
  4. Beethoven:Symphony No.1 in C major ,Op.21 [4.Adagio; Allegro Molto E Vivace]

18世紀の交響曲の集大成であり、ハイドンの総決算



ベートーベンという人の作曲家としての道筋を辿るときに、重要な目印になるのが32曲のピアノ・ソナタです。
ベートーベンという人はクラシック音楽の世界を深く掘り下げた人であるのですが、驚くほど多方面にわたって多様な音楽を書いた人でもありました。さすがに、オペラは彼の資質から見ればそれほど向いている分野ではなかったようなのですが、それでも「フィデリオ」という傑作を残しています。
特定の分野に絞って深く掘り下げた人はいますし、多方面にわたって多くの作品を書き散らした人もいます。しかし、ベートーベンのように幅広い分野にわたって革命的と言えるほどに深く掘り下げた人は、他にモーツァルトがいるくらいでしょうか。

そんなベートーベンが、その生涯にわたって創作を続けた分野がピアノ・ソナタであり、それ以外では交響曲と弦楽四重奏の分野でしょうか。
そして、この3つの中でもっとも数多くの作品を残したのがピアノ・ソナタですから、ピアノ・ソナタこそがもっとも細かい目盛りでベートーベンという男を計測できるのです。

この計測器を使って初期の1番と2番の交響曲を計測してみれば、それが同列に論じてはいけないことは一目瞭然です。

  1. ベートーベン:交響曲第1番 ハ長調 作品21 [1799年~1800年]

  2. ベートーベン:交響曲第2番 ニ長調 作品36 [1801年~1802年]


時間的に見れば相接しているように見えるのですが、ピアノ・ソナタで計測してみれば、この二つの交響曲の間には明らかに大きな飛躍が存在していることに気づかされます。

ベートーベンはこの第1番の交響曲を書き上げるまでに「悲愴ソナタ」を含む第10番までのピアノ・ソナタを書き上げていました。ピアノ・ソナタ全体のおよそ3分の1を占める10番までの初期ソナタは、ハイドンやモーツァルトが確立した18世紀のソナタを学んでそれを血肉化し、それをふまえた上で前に進もうと模索した時期でした。

そう言う模索の先に第1番の交響曲が生み出されたことは、ベートーベンという男の「歩み方」のようなものが暗示されているように思えます。
彼にとってピアノ・ソナタは常に新しい道を切り開くアイテムであり、そこで切り開いた結果を集大成するのが交響曲でした。

その意味では、この第1番の交響曲は18世紀の交響曲の集大成であり、その手本は明らかにハイドンだったのです。
しかし、その事は先人の業績をなぞっただけの作品になっていると言うことを意味するものではありません。そこには、ハイドンが長年の試行錯誤の中で確立した18世紀的な交響曲の手法をしっかりと自らのものとしながら、そこに何か新しいものを付け加えようとする意欲も垣間見ることが出来るのです。

それは、例えば第1楽章冒頭のちょっと不思議な印象が残る和音進行からして明らかです。そう言えば、カラヤンがこの冒頭部分は指揮者にとっては難しいみたいな事をどこかで語っていました。
続く、第2楽章では、どこか浪漫派を思わせるような叙情性を身にまとっていますし、何よりも続くメヌエット楽章の雰囲気はハイドン的な典雅さとは随分隔たっています。もっとも、それを「スケルツォ」とまでは言い切れないのでしょうが、それでもハイドンをなぞっているだけでないことは明らかです。

そして、最終楽章のアダージョの序奏はハイドン的な世界からはかなりへだっています。
しかしながら、音楽全体としてはやはりそれはハイドンの総決算です。

そして、この第1番の交響曲を書き上げた後に、さらに第11番から18番までのピアノ・ソナタを書き上げます。
しかし、それらのピアノ・ソナタは同一線上に存在するものではなくて、11番から15番までの作品群と、それ以後の作品31の16番から18番までの作品群に分かれます。

前者の作品群はそれ以前の初期ソナタの流れを引き継ぐものであり、それはウィーンでの人気ピアニストとしての腕を振るうために18世紀的ソナタを集大成たピアノ・ソナタでした。
ですから、それらは若き人気ピアニストの作品群と言えます。

しかし、それはやがて彼のわき上がるような創作意欲をおさめるものとしては、あまりにも小さく、そしてあまりにも古いものであることに気づかざるを得なくなります。
そして、その事に気づいたベートーベンは、未だ誰も踏み出したことがないような世界へと歩を進めていくのです。

それが、「私は今後新しい道を進むつもりだ」と明言して生み出された「テンペスト」を含む作品31のソナタだったのです。

交響曲2番は、まさにその様な新しい道へと踏み出した時期に生み出された音楽なのです。ですから、「初期の1番・2番」などとセットにして語ってはいけないのです。
交響曲の1番が18世紀の総括だとすれば、第2番は明らかに19世紀への新しい一歩を踏み出した音楽なのです。

そして、彼はピアノ・ソナタの分野ではこのすぐ後に「ワルトシュタイン」を生み出し、その後に、ついに音楽史上の奇蹟とも言うべき「エロイカ」が生み出されるのです。


ドラマティックに仕上げたファースト・シンフォニー


フルトヴェングラーという人はとことん「録音」というものを信じていなかったんだなぁ・・・と、このライブ録音を聞いてつくづくと感じさせられました。

フルトヴェングラーは1952年の11月24日から27日にかけてベートーベンの交響曲第1番を、同じく11月26日と27日に交響曲第3番「エロイカ」をスタジオ録音をしています。録音を行ったのはEMIであり、録音会場はウィーンのムジークフェラインザールでした。
そして、その録音でのセッションをまるでリハーサルがわりにしたかのように、11月29日と30日にムジークフェラインザールで行われたウィーンフィルとの演奏会でこの2曲を取り上げています。

ちなみに両日のプログラムは以下の通りです。

11月29日

  1. ベートーベン:交響曲第1番 ハ長調 作品21

  2. ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55 「英雄」



11月30日

  1. ベートーベン:交響曲第1番 ハ長調 作品21

  2. ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55 「英雄」

  3. マーラー:「さすらう若人の歌」 (Br)アルフレート・ペル


11月30日はマーラーの「さすらう若人の歌」が聞けただけお得感が強いですね。(^^;
もっとも、ソリストがフィッシャー=ディースカウでなかったのは残念だったでしょうが、そりゃまあ贅沢というものでしょう。

この年の6月にフルトヴェングラーは「トリスタンとイゾルデ」の録音を行って、録音という物の価値を信じ始めたと言われるのですが、このスケジュールを見ているとその「信頼」はそれほど強いものではなかったのかようです。
録音というものが己の音楽を末永く伝える貴重な機会であり、それに相応しいクオリティをそなえていると信じているのであれば、普通はスケジュールはこの逆になるはずです。

セルなどはその典型でした。
レコード会社から録音の依頼があれば、そしてその依頼が彼のお気に召すものであれば、セルはその作品を定期演奏会で取り上げました。当然の事ながら、その作品は定期演奏会にむけて入念にリハーサルが行われるのであって、そしてその成果を定期演奏会で披露したすぐあとにその作品のセッション録音を行いました。
それは、録音のために余計なリハーサルを行わなくてもよいという経済的メリットも大きかったのでしょうが、そのやり方こそが最高のパフォーマンスを録音に刻み込むことが出来ると考えていたからです。

しかし、どうやらフルトヴェングラーは録音よりは実演にこそ大きな価値を見いだしていて、録音というものはあくまでも会場に来て自分の音楽を聞くことが出来ない人のための代用品程度の意味合いしか持っていなかったのかもしれません。
ここで聞くことのできるベートーベンの1番は、フルトヴェングラー愛好家の中では29日の音源なのか30日の音源なのかで意見が分かれているようですが、スタジオ録音と較べてみれば分かるように作品そのものに対するアプローチは全く変わっていません。ですから、フルトヴェングラーの音楽を聞きたいだけの人にとっては、そう言う細かいことはどちらでもいい話です。

そして、意気込みの問題もあるのかもしれませんが、あらためてフルトヴェングラーという人は実演でこそ実力が出るタイプであったことを教えられます。はっきり言って、彼がスタジオ録音でもやろうとしていたことが、このライブではより明確な形で表現されています。
おそらく、ハイドンからの血統を未だ強く受け継いでいるこのベートーベンのファースト・シンフォニーをこれほどまでにドラマティックに仕上げることが出来た人はフルトヴェングラーだけでしょう。
とりわけ、大胆きわまる間の取り方や起伏に富んだ表情の付け方は誰も真似が出来ません。

そして、もっと驚くのは、音質的にも数日前に行ったセッション録音と大差がないどころか、もしかしたらこちらの方がいいかもしれないと思う部分があることです。
そう言えば、レーベルは違いますがDeccaのカルショーも「補助的に録音用のマイクを増やすと、フルトヴェングラーはそれをめざとく見つけて撤去することを命じた」と嘆いていました。フルトヴェングラーの録音は同時代のモノラル録音と較べてもクオリティ的にはかなり落ちるものが多いのですが、その責任の大部分はフルトヴェングラー自身にあったようです。