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ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95(B.178)「新世界より」
ヴァーツラフ・ターリヒ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1954年9月28日~30日録音をダウンロード
- Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [1.Adagio - Allegro molto]
- Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [2.Largo]
- Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [3.Molto vivace]
- Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [4.Allegro con fuoco]
ボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である
ドヴォルザークが、ニューヨーク国民音楽院院長としてアメリカ滞在中に作曲した作品で、「新世界より」の副題がドヴォルザーク自身によって添えられています。
ドヴォルザークがニューヨークに招かれる経緯についてはどこかで書いたつもりになっていたのですが、どうやら一度もふれていなかったようです。ただし、あまりにも有名な話なので今さら繰り返す必要はないでしょう。
しかし、次のように書いた部分に関しては、もう少し補足しておいた方が親切かもしれません。
この作品はその副題が示すように、新世界、つまりアメリカから彼のふるさとであるボヘミアにあてて書かれた「望郷の歌」です。
この作品についてドヴォルザークは次のように語っています。
「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう。」
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」
この「新世界より」はアメリカ時代のドヴォルザークの最初の大作です。それ故に、そこにはカルチャー・ショックとも言うべき彼のアメリカ体験が様々な形で盛り込まれているが故に「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう」という言葉につながっているのです。
それでは、その「アメリカ体験」とはどのようなものだったでしょうか。
まず最初に指摘されるのは、人種差別のない音楽院であったが故に自然と接することが出来た黒人やアメリカ・インディオたちの音楽との出会いです。
とりわけ、若い黒人作曲家であったハリー・サンカー・バーリとの出会いは彼に黒人音楽の本質を伝えるものでした。
ですから、そう言う新しい音楽に出会うことで、そう言う「新しい要素」を盛り込んだ音楽を書いてみようと思い立つのは自然なことだったのです。
しかし、そう言う「新しい要素」をそのまま引用という形で音楽の中に取り込むという「安易」な選択はしなかったことは当然のことでした。それは、彼の後に続くバルトークやコダーイが民謡の採取に力を注ぎながら、その採取した「民謡」を生の形では使わなかったののと同じ事です。
ドヴォルザークもまた新しく接した黒人やアメリカ・インディオの音楽から学び取ったのは、彼ら独特の「音楽語法」でした。
その「音楽語法」の一番分かりやすい例が、「家路」と題されることもある第2楽章の5音(ペンタトニック)音階です。
もっとも、この音階は日本人にとってはきわめて自然な音階なので「新しさ」よりは「懐かしさ」を感じてしまい、それ故にこの作品が日本人に受け入れられる要因にもなっているのですが、ヨーロッパの人であるドヴォルザークにとってはまさに新鮮な「アメリカ的語法」だったのです。
とは言え、調べてみると、スコットランドやボヘミアの民謡にはこの音階を使用しているものもあるので、全く「非ヨーロッパ的」なものではなかったようです。
しかし、それ以上にドヴォルザークを驚かしたのは大都市ニューヨークの巨大なエネルギーと近代文明の激しさでした。そして、それは驚きが戸惑いとなり、ボヘミアへの強い郷愁へとつながっていくのでした。
どれほど新しい「音楽的語法」であってもそれは何処まで行っても「手段」にしか過ぎません。
おそらく、この作品が多くの人に受け容れられる背景には、そう言うアメリカ体験の中でわき上がってきた驚きや戸惑い、そして故郷ボヘミアへの郷愁のようなものが、そう言う新しい音楽語法によって語られているからです。
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」という言葉に通りに、ボヘミア国民楽派としてのドヴォルザークとアメリカ的な語法が結びついて一体化したところにこの作品の一番の魅力があるのです。
ですから、この作品は全てがアメリカ的なもので固められているのではなくて、まるで遠い新世界から故郷ボヘミアを懐かしむような場面あるのです。
その典型的な例が、第3楽章のスケルツォのトリオの部分でしょう。それは明らかにボヘミアの冒頭音楽(レントラー)を思い出させます。
そして、そこまで明確なものではなくても、いわゆるボヘミア的な情念が作品全体に散りばめられているのを感じとることは容易です。
初演は1893年、ドヴォルザークのアメリカでの第一作として広範な注目を集め、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルの演奏で空前の大成功を収めました。
多くのアメリカ人は、ヨーロッパの高名な作曲家であるドヴォルザークがどのような作品を発表してくれるのか多大なる興味を持って待ちかまえていました。そして、演奏された音楽は彼の期待を大きく上回るものだったのです。
それは、アメリカが期待していたアメリカの国民主義的な音楽であるだけでなく、彼らにとっては新鮮で耳新しく感じられたボヘミア的な要素がさらに大きな喜びを与えたのです。
そして、この成功は彼を音楽院の院長として招いたサーバー夫人の面目をも施すものとなり、2年契約だったアメリカ生活をさらに延長させる事につながっていくのでした。
民族への誇りに満ちた熱い演奏
嘘か本当かは分かりませんが、ターリッヒ&チェコ・フィルによるドヴォルザークの演奏を聞いたムラヴィンスキーは、その素晴らしさに感嘆して、それ以後自らの演奏会ではドヴォルザークを取り上げることはなかったという話が伝わっているそうです。
しかし、じっくりと考えてみると、このエピソードはなかなかに興味深いものがあります。
音楽史の中ではドヴォルザークは「国民楽派」というカテゴリーに入れられて、民族主義的な音楽を書いた作曲家と言うことになっています。もちろん、それで間違いはないのですが、ところが彼の作品で高く評価されている録音の多くは、そう言う民族主義的な側面を削ぎ落とした、(おかしな言い方ですが)、純音楽的なというか、民族的と言うよりは国籍不明のコスモポリタンな音楽として演奏したものが上げられることが多いのです。
その典型はトスカニーニやセルによる交響曲演奏でしょう。
しかし、そうなってしまう背景を見てみれば、ドヴォルザークの音楽にはブラームスの音楽が強く影響をしていて、その背骨として伝統的な西洋音楽の構造がしっかりと通っているからです。ですから、そのしゃんとした背骨に添って音楽を構築すれば、それはそれで実に立派な音楽として仕上がってしまうのです。
おそらく、ムラヴィンスキーがドヴォルザークを演奏すれば、間違いなくセルやトスカニーニと同じ方向性で音楽を構築したはずです。
しかし、ここで聞くことのできるターリッヒのドヴォルザークは、そう言う西洋音楽の伝統を踏み外すことなく、そこに加えてチェコの民族的要素を大らかに、そして情熱的に歌い上げています。
音楽というものが「知」と「情」で出来ているとするならば、セルやトスカニーニは徹底的に「知」に添って音楽を構築し、ターリッヒは大らかに民族的な「情」を歌い上げているのです。
そして、不思議なことに、こういうターリッヒのように熱く民族への賛歌を歌い上げるような演奏はそれほど多くはないのです。それは、彼のあとを継いでチェコ・フィルを率いたクーベリックやアンチェルにしても同様です。そして、その背景に様々な政治的要因が重なって、おそらくはそこまで屈託もなく民族の誇りを歌い上げることには躊躇いを感じてしまったのでしょう。
そう言う意味では、ターリッヒは多少の政治的嫌がらせを受けたことはあっても、それによって自らの民族への誇りと信頼を損なうことのない幸せな人生を送れた人といえるかもしれません。
彼が引退する直前の1954年に録音された「新世界より」はそう言うターリッヒの幸せな側面が色濃くでた演奏です。セルやトスカニーニの演奏ばかり聞いてきた私にとってはいささか驚かされるほどの「熱さ」で圧倒されました。
それは、1951年に録音した第8番の交響曲もまた同様なのですが、こちらの方はいささか響きが痩せて聞こえる録音が残念ではありますが、演奏はこれもまた実に「熱い」ので、是非とも聞いて欲しい一枚です。