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ベートーベン:ピアノ・ソナタ第10番 ト長調 Op.14-2


(P)フリードリヒ・グルダ 1953年10月22日録音をダウンロード

  1. Beethoven: Piano Sonata No.10 In G, Op.14 No.2 [1. Allegro]
  2. Beethoven: Piano Sonata No.10 In G, Op.14 No.2 [2. Andante]
  3. Beethoven: Piano Sonata No.10 In G, Op.14 No.2 [3. Scherzo (Allegro assai)]

拡大の後の収縮



ベートーベンという人の創作の道筋を辿っていると、大きく足を踏み出した後に、その勢いに乗ってどんどん前に進んでいくことはしなかったことに気づきます。
例えば、交響曲の分野で言えば、エロイカの後に書いたのは「北方の巨人にはさまれたギリシャの乙女」と称される第4番の交響曲でした。

もちろん、「Grande Sonate Pathetique」は「エロイカ」ほどの飛躍をもたらしたものではないのですが、それでも彼の初期ソナタの総決算という大きな意味をもつ作品でした。そこで、ベートーベンは古典的な均衡よりは率直な人間的感情の表出にこそ自分の進むべき道があることを宣言したのです。
そして、普通ならば、そう言う宣言の後には、その宣言にそってさらに一歩、歩を前に進めるのが普通なのですが、なぜかベートーベンという男はそこで踏みとどまって過去との折り合いを探りはじめるのです。

その意味では、「Grande Sonate Pathetique」とそれに続く作品14の2つのソナタの関係は、エロイカと第4番の交響曲との関係をより小ぶりにしたものだと言えます。
それ故に、「悲愴ソナタ」によって大きく一歩を踏み出したにもかかわらず、その外見はそれ以前に作曲された作品10のこぢんまりとした2つのソナタ(6番と7番)に似通っているのです。

しかしながら、第4番の交響曲が必ずしも第1番や第2番の交響曲への先祖帰りでなかったのと同様に、この2つのソナタも単純に先祖帰りをしたわけではありません。
確かに、この2つのソナタはかなり控えめな規模の作品であり、演奏上の困難も小さいので、おそらくは演奏会ではなくて家庭における演奏を前提とした作品であったと考えられます。とりわけ、第10番のソナタはベートーベンのソナタの中でももっとも演奏が容易なものの一つであり、今も学習用によく使われる作品です。

それでも、例えば、第9番のソナタの第2楽章は三部形式のメヌエットではあるのですが、そこには明らかにスケルツォ的な暗い情念が宿っていることは明らかです。
また、第10番のソナタでは小節の頭が揃っていない印象を与えるような箇所があちこちに登場します。

ローゼン先生はそれをハイドン流のジョークと呼んでいますが、それ故にソナタというよりはユーモラスなパガテルを思わせるとも書いています。
つまりは、古典的な引き締まった形式感の中で、その枠の中にきちんと収まる形で色々な感情の発露を試しているように聞こえるのです。

そして、その事を評価する人は、弟子のシンドラーが「最も内容の優れたものであるにもかかわらず、あまり認められない作品」だと述べている事に同意するのです。
しかし、その行儀のよい佇まいに対して、大きく一歩前進した前作の「悲愴」からの逆戻りと受け取る人は「駄作」と切って捨てるのです。

繰り返しになりますが、ベートーベンという男は意外なほどに慎重であり、それ行けどんどんで猛進していくタイプではなかったことだけは確かです。


  1. 第1楽章:アレグロ ト長調 (ソナタ形式)
    右手と左手が交わす対話をシンドラーは、「二つの主義の争い、もしくは男女の対話」と呼びました。これをうけてこの作品に「夫婦喧嘩」というニックネームがつけられたこともあったようです。

  2. 第2楽章:アンダンテ ハ長調(変奏曲形式)

  3. 第3楽章:スケルツォ アレグロ・アッサイ ト長調 (ロンド形式)




見晴らしのいい爽快で新鮮でしかも深いベートヴェン


ブレンデルのソナタ全集を紹介したときにグルダの全集に関しても少しばかりふれました。
一般的にグルダによるベートーベンのピアノ・ソナタ全集は1967年に集中的に録音されたAmadeoでのステレオ録音と、1954年から1958年にかけてモノラル・ステレオ混在で録音されたのDecca録音の二つが知られていました。しかし、最近になってその存在が知られるようになったのがここで紹介しているた1953年から1954年にかけてウィーンのラジオ局によってスタジオ収録された全曲録音です。

この録音は、きちんとセッションを組んで以下のような順番で全曲が録音されたようです。

  1. 1953年10月8&9日録音:1番~3番

  2. 1953年10月15&16日録音:4番~7番&19番~20番

  3. 1953年10月22日録音:8番~10番

  4. 1953年10月26日録音:11番

  5. 1953年10月29日録音:12番~13番&15番

  6. 1953年11月1日録音:14番

  7. 1953年11月6日録音:16番~18番&21番

  8. 1953年11月13日録音:22番&24番~25番

  9. 1953年11月20日録音:23番&27番

  10. 1953年11月26日録音:30番~31番

  11. 1953年11月27日録音:26番&32番

  12. 1954年1月11日録音:28番~29番


グルダは年代順にベートーベンのピアノ・ソナタを全曲録音するという構想を立てていて、それを実際に行ったのは1953年のことでした。その年に、グルダはなんとオーストリアの6都市でベートーベンのピアノ・ソナタ全曲演奏会を行うことになるのですが、おそらくはその集大成として1953年10月8日から1954年1月11日にかけて、セッション録音を行ったのでしょう。

しかしながら、その全曲録音が終了した1954年からグルダはDeccaで同じような全曲録音を開始するのです。
この1953年から1954年にかけて録音を行ったウィーンのラジオ局は、当時は依然としてソ連の管理下にあったこともあってか、結局は一度も陽の目を見ることもなく「幻の録音」となってしまったようなのです。

それでは、その「幻の録音」が何故に今頃になって陽の目を見たのかと言えば、録音から50年が経過しても未発表だったのでパブリック・ドメインとなったためでしょう。そう考えてみると、著作権というのは創作者の権利を守るとともに、一定の期間を過ぎたものはパブリック・ドメインとして多くの人に共有されるようにすることには大きな意味があるといえるのです。

さて、私事ながら、ベートーベンのピアノ・ソナタ全曲の「刷り込み」はグルダのAMADEOでのステレオ録音でした。つまりは、全曲をまとめて聴いたのがその録音だったのです。
理由は簡単です。その当時、AMADEOレーベルから発売されていたこの全集が一番安かったからです。(それでも1万円ぐらいしたでしょうか。昔はホントにCDは高かった)

ただ、買ってみて少しがっかりしたことも正直に申し上げておかなければなりません。なぜなら、その当時の私の再生装置では、なぜかピアノの響きが「丸く」なってしまって、それがどうしても我慢できなかったからです。
その後、CDプレーヤーは捨ててファイル再生に(PCオーディオ)へと移行していく中で、意外としゃっきりと鳴っていることに気づかされて、そのおかげでグルダの演奏の凄さが少しは分かるようになっていったものでした。音楽家への評価と再生装置の問題は意外と深刻な問題をはらんでいるのです。

当時のHMVのキャッチコピーを見ると「録音から既に長い年月が経過していますが、その間にリリースされた全集のどれと較べても、全体のムラのない完成度や、バランスの見事さ、響きの美しさといった点で、いまだに優れた内容を誇り得る全集だと言えるでしょう。」と書いています。
CDプレーヤーでお皿を回しているときは、この「バランスの見事さ、響きの美しさ」と言う評価には全く同意できなかったです。ただし、今のシステムならば十分に納得のいくものとなっています。

そして、それとほぼ同じ事がこの若き日の録音にもいえるのです。
1953年から1954年と言えば、バックハウスやケンプが現役バリバリで活躍していた時代でした。彼らのようなドイツの巨匠によるベートーベンは、シュナーベルやフィッシャーなどから引き継がれてきたドイツ的なベートーベン像でした・・・おそらく・・・。
そして、それ故に彼らのソナタ全集は多くの聞き手から好意的に受け入れられ、その結果としてメジャーレーベルから華々しく発売されることになったのです。

そう言う巨匠達の演奏と較べれば、このグルダのベートーベンは全く異なった時代を象徴するような演奏でした。
もしもバックハウスの演奏が「絶対的」なものならば、このグルダの演奏は明らかに異質な世界観のもとに成り立っています。
全体としてみれば早めのテンポで仕上げられていて、シャープと言っていいほどに鋭敏なリズム感覚で全体が造形されています。そして、ここぞと言うところでのたたみ込むような迫力は効果満点です。この、「ここぞ!」というとところでのたたき込み方は67年のAMADEOでのステレオ録音よりもこの50年代のモノラル録音の方が顕著です。
つまりは、それだけ覇気にあふれていると言うことなのでしょう。

ですから、バックハウスのようなベートーベンを絶対視する人から見れば、この演奏を「軽い」と感じる人もいることは否定しません。
たとえば、グルダの演奏を「音楽の深さや重さを教えているものではなく、極めて口当たりの良い軽い音で、しかも気軽に聞けるように作り直している」と評価している人もいたほどでした。それは、67年の録音に対してのものでしたから、それとほぼ同じスタンスで演奏した50年代の初頭の録音ならば(それは結局は陽の目を見なかったのですが)、大部分の人がそのような「否定的」な感想を持ったのだろうと思います。

しかし、ベートーベンはいつまでもバックハウスやケンプを模倣していないと悟れば、このグルダの録音は全く新しいベートーベン像を呈示していることに気づかされます。
つまり、シュナーベルから引き継がれてきたドイツ的(何とも曖昧な言葉ですが・・・^^;)なベートーベン像だけが絶対的な「真実」ではないと悟れば、このグルダが提供するベートーベン像の新しさは逆に大きな魅力として感じ取れるはずです。何故ならば、重く暑苦しい演奏は数あれど、ここまで見晴らしのいい爽快で新鮮でしかも深いベートヴェンはこれが初めてかもしれないのです。

そう言う意味で、録音から50年が経過して、著作権の軛から解放されてこの演奏が陽の目をみることが出来たことは喜ばなければなりません。