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ベートーベン:ピアノ・ソナタ第11番 変ロ長調 Op.22
(P)フリードリヒ・グルダ 1953年10月26日録音をダウンロード
- Beethoven: Piano Sonata No.11 In B Flat, Op.22 [1. Allegro con brio]
- Beethoven: Piano Sonata No.11 In B Flat, Op.22 [2. Adagio con molto espressione]
- Beethoven: Piano Sonata No.11 In B Flat, Op.22 [3. Menuetto]
- Beethoven: Piano Sonata No.11 In B Flat, Op.22 [4. Rondo (Allegretto)]
ベートーベンは己の中における一つの時代に締めくくりをつけている
ベートーベンの数多いソナタの中ではそれほど目立つ作品ではないのですが、色々な意味でこのソナタは彼の創作の道筋における分岐点を為すものとなっています。
この作品において、ベートーベンはウィーンにおける音楽の伝統様式を自由に扱う能力を身につけたことを明確に示しています。それは「Grande Sonate Pathetique」でみせた膨張を見事な形で収縮させてみせたのです。
その意味において、彼が18世紀的なソナタをハイドンやモーツァルトから受け継ぎ、それを自分の中で消化するために取り組んできた初期ソナタのまとめになっているのです。
ですから、これに続く作品からは、その総決算の上にベートーベンなりの革新的な試みが盛られるようになっていくのです。
そして、その事を何よりもベートーベン自身は強く意識していたようで、彼はこの作品に対する強い自信を表明していまた。
彼は出版社への手紙の中で「このソナタは素晴らしいものです」と明言して「グランドソナタ」と名付けただけでなく、作品20の七重奏曲や第1番の交響曲と同じだけの値段を要求しています。
この作品の第1楽章の主題は3度の上昇と下降という単純なものであり、それは後の「ハンマークラヴィーア」と類似しています。
しかし、その似通った動機を用いながら、ここではあのような英雄的な表現ではなくて、このシンプル極まる素材を用いて一つの楽章をいかにして成り立たせるかという「技術的興味」に集約されています。
そして、その興味こそがこのソナタを「初期ソナタ」の総決算としているのです。
ローゼン先生は「第1楽章は表現力に乏しく、悲劇的でも喜劇的でもないし、叙情にも訴えない。単に技巧に走るのみで満足している」と述べているのは、その様な技術的労作にベートーベンの興味が集中している事への言及ととらえるべきでしょう。
これに続くAdagio楽章は初期ソナタを締めくくる緩徐楽章に相応しい美しさを内包しています。
それは、オペラのアリアのようであり、さらに言えば、後のロマン派の性格的小品につながっていくような音楽でもあります。
ただし、それ故にか、多くのピアニストはこれを遅く演奏しすぎる誘惑から逃れることは難しいようです。
ピリオド楽器による演奏は決して好むものではないのですが、その研究によって、古典派の時代の「Adagio」は今の私たちが考えるほどには遅くなかったとい指摘は心に留めておくべきでしょう。
そして、これに続く楽章は規則通りのメヌエットであり、スケルツォという新しい試みは完全に封印してウィーンの伝統的な様式にそって音楽は組み立てられています。
しかし、ト短調のトリオは聞くものに感銘を与えるようで、シューマンはこの部分を自作の「フモレスケ」の中で模倣しています。
そして、最後のロンド楽章もまた、伝統的なウィーン風のロンド形式で締めくくられます。
その整然とした形式の上できわめてピアにスティックな音楽が紡がれていくことによって、ベートーベンもまた己の中における一つの時代に締めくくりをつけたのです。
- 第1楽章:アレグロ・コン・ブリオ 変ロ長調 (ソナタ形式)
- 第2楽章:アダージョ・コン・モルタ・エスプレッシオーネ 変ホ長調 (ソナタ形式)
- 第3楽章:メヌエット 変ロ長調
- 第4楽章: ロンド アレグレット 変ロ長調
見晴らしのいい爽快で新鮮でしかも深いベートヴェン
ブレンデルのソナタ全集を紹介したときにグルダの全集に関しても少しばかりふれました。
一般的にグルダによるベートーベンのピアノ・ソナタ全集は1967年に集中的に録音されたAmadeoでのステレオ録音と、1954年から1958年にかけてモノラル・ステレオ混在で録音されたのDecca録音の二つが知られていました。しかし、最近になってその存在が知られるようになったのがここで紹介しているた1953年から1954年にかけてウィーンのラジオ局によってスタジオ収録された全曲録音です。
この録音は、きちんとセッションを組んで以下のような順番で全曲が録音されたようです。
- 1953年10月8&9日録音:1番~3番
- 1953年10月15&16日録音:4番~7番&19番~20番
- 1953年10月22日録音:8番~10番
- 1953年10月26日録音:11番
- 1953年10月29日録音:12番~13番&15番
- 1953年11月1日録音:14番
- 1953年11月6日録音:16番~18番&21番
- 1953年11月13日録音:22番&24番~25番
- 1953年11月20日録音:23番&27番
- 1953年11月26日録音:30番~31番
- 1953年11月27日録音:26番&32番
- 1954年1月11日録音:28番~29番
グルダは年代順にベートーベンのピアノ・ソナタを全曲録音するという構想を立てていて、それを実際に行ったのは1953年のことでした。その年に、グルダはなんとオーストリアの6都市でベートーベンのピアノ・ソナタ全曲演奏会を行うことになるのですが、おそらくはその集大成として1953年10月8日から1954年1月11日にかけて、セッション録音を行ったのでしょう。
しかしながら、その全曲録音が終了した1954年からグルダはDeccaで同じような全曲録音を開始するのです。
この1953年から1954年にかけて録音を行ったウィーンのラジオ局は、当時は依然としてソ連の管理下にあったこともあってか、結局は一度も陽の目を見ることもなく「幻の録音」となってしまったようなのです。
それでは、その「幻の録音」が何故に今頃になって陽の目を見たのかと言えば、録音から50年が経過しても未発表だったのでパブリック・ドメインとなったためでしょう。そう考えてみると、著作権というのは創作者の権利を守るとともに、一定の期間を過ぎたものはパブリック・ドメインとして多くの人に共有されるようにすることには大きな意味があるといえるのです。
さて、私事ながら、ベートーベンのピアノ・ソナタ全曲の「刷り込み」はグルダのAMADEOでのステレオ録音でした。つまりは、全曲をまとめて聴いたのがその録音だったのです。
理由は簡単です。その当時、AMADEOレーベルから発売されていたこの全集が一番安かったからです。(それでも1万円ぐらいしたでしょうか。昔はホントにCDは高かった)
ただ、買ってみて少しがっかりしたことも正直に申し上げておかなければなりません。なぜなら、その当時の私の再生装置では、なぜかピアノの響きが「丸く」なってしまって、それがどうしても我慢できなかったからです。
その後、CDプレーヤーは捨ててファイル再生に(PCオーディオ)へと移行していく中で、意外としゃっきりと鳴っていることに気づかされて、そのおかげでグルダの演奏の凄さが少しは分かるようになっていったものでした。音楽家への評価と再生装置の問題は意外と深刻な問題をはらんでいるのです。
当時のHMVのキャッチコピーを見ると「録音から既に長い年月が経過していますが、その間にリリースされた全集のどれと較べても、全体のムラのない完成度や、バランスの見事さ、響きの美しさといった点で、いまだに優れた内容を誇り得る全集だと言えるでしょう。」と書いています。
CDプレーヤーでお皿を回しているときは、この「バランスの見事さ、響きの美しさ」と言う評価には全く同意できなかったです。ただし、今のシステムならば十分に納得のいくものとなっています。
そして、それとほぼ同じ事がこの若き日の録音にもいえるのです。
1953年から1954年と言えば、バックハウスやケンプが現役バリバリで活躍していた時代でした。彼らのようなドイツの巨匠によるベートーベンは、シュナーベルやフィッシャーなどから引き継がれてきたドイツ的なベートーベン像でした・・・おそらく・・・。
そして、それ故に彼らのソナタ全集は多くの聞き手から好意的に受け入れられ、その結果としてメジャーレーベルから華々しく発売されることになったのです。
そう言う巨匠達の演奏と較べれば、このグルダのベートーベンは全く異なった時代を象徴するような演奏でした。
もしもバックハウスの演奏が「絶対的」なものならば、このグルダの演奏は明らかに異質な世界観のもとに成り立っています。
全体としてみれば早めのテンポで仕上げられていて、シャープと言っていいほどに鋭敏なリズム感覚で全体が造形されています。そして、ここぞと言うところでのたたみ込むような迫力は効果満点です。この、「ここぞ!」というとところでのたたき込み方は67年のAMADEOでのステレオ録音よりもこの50年代のモノラル録音の方が顕著です。
つまりは、それだけ覇気にあふれていると言うことなのでしょう。
ですから、バックハウスのようなベートーベンを絶対視する人から見れば、この演奏を「軽い」と感じる人もいることは否定しません。
たとえば、グルダの演奏を「音楽の深さや重さを教えているものではなく、極めて口当たりの良い軽い音で、しかも気軽に聞けるように作り直している」と評価している人もいたほどでした。それは、67年の録音に対してのものでしたから、それとほぼ同じスタンスで演奏した50年代の初頭の録音ならば(それは結局は陽の目を見なかったのですが)、大部分の人がそのような「否定的」な感想を持ったのだろうと思います。
しかし、ベートーベンはいつまでもバックハウスやケンプを模倣していないと悟れば、このグルダの録音は全く新しいベートーベン像を呈示していることに気づかされます。
つまり、シュナーベルから引き継がれてきたドイツ的(何とも曖昧な言葉ですが・・・^^;)なベートーベン像だけが絶対的な「真実」ではないと悟れば、このグルダが提供するベートーベン像の新しさは逆に大きな魅力として感じ取れるはずです。何故ならば、重く暑苦しい演奏は数あれど、ここまで見晴らしのいい爽快で新鮮でしかも深いベートヴェンはこれが初めてかもしれないのです。
そう言う意味で、録音から50年が経過して、著作権の軛から解放されてこの演奏が陽の目をみることが出来たことは喜ばなければなりません。