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ベートーベン:ピアノ・ソナタ第13番 変ホ長調 Op.27-1
(P)フリードリヒ・グルダ 1953年10月29日録音をダウンロード
- Beethoven: Piano Sonata No.13 In E Flat, Op.27 No.1 [1. Andante - Allegro - Tempo I]
- Beethoven: Piano Sonata No.13 In E Flat, Op.27 No.1 [2. Allegro molto e vivace]
- Beethoven: Piano Sonata No.13 In E Flat, Op.27 No.1 [3. Adagio con espressione]
- Beethoven: Piano Sonata No.13 In E Flat, Op.27 No.1 [4. Allegro vivace - Tempo I - Presto]
感情の彷徨の果てに、終楽章において一つの結論に至るように全体を統一することにチャレンジした
全く同じ出自をもってこの世に生み出され、そしてその資質においてほとんど違いがないにもかかわらず、片方はこの上もない「名誉」と「称賛」に包まれながら、他方はその影でほとんど顧みられることがないというのは不思議といえば不思議な話です。
そして、その不思議な話の一つの典型が、ともに「幻想曲風ソナタ(Sonata quasi una Fantasia)」として、そして、ともに作品番号27という数字を与えられた、この2つのソナタでしょう。
作品番号27の2の方には後世の人が「月光ソナタ」というタイトルを与えて、おそらくは古今東西のピアノ作品の中ではもっとも有名な音楽の一つとなりました。
それに対して、作品番号27の1の方はその様な名誉に与ることなどは一度もなく、その片割れである「月光ソナタ」の隣でひっそりとうずくまっています。
音楽に「優劣」などという概念を持ち込むことはおかしな話なのですが、それでも敢えて用いるとすれば、この二つの作品の間にはその様な違いをもたらすほどの優劣の差があるはずもなく、さらに言えば、この二つの作品を均等に並べて聞き比べてみればそもそも「優劣」の差を見いだすことすら難しいのです。
ネット時代が始まる頃に、よく「集合知」と言うことがよくいわれました。
「専門家が知識を駆使するより、一般人の多数決のほうが正解に近づく」とか「専門家の助言より一般人のアンケート」などといわれたものですが、この事実はその限界をあらわしている一例なのかもしれません。
確かに、個人のバイアスが多数決によって是正されることもあるのですが、集団でバイアスがかっているときには、その集団にはそれを是正する力は存在しません。その事を、学校におけるイジメの構造や過労死をもたらすような異常な労働環境、さらには独裁者が君臨する国家の機構などを通して嫌と言うほど見せつけられてきたおかげで、最近はあまりそう言う言葉も聞かなくなったような気がします。
もっとも作品番号27の1と2の間の問題は、その様な深刻な問題ではないのですが(^^;、見かけの「有名」さに引きずられて自分の守備範囲が狭まることには注意が必要だと言うことでしょう。
ベートーベンがこの二つの「幻想曲風ソナタ」でチャレンジしたのは、それまでは音楽の重点が第1楽章におかれていたのに対して、全楽章を様式的に統一することによってその重点を最終楽章に移行することでした。
ベートーベンは既に古典的な均衡から抜け出して人間の率直な感情を表出する方向に舵を切り替えたことを「悲愴ソナタ」において表明していました。
そして、この二つのソナタにおいて、その様な感情の彷徨の果てに最終楽章において一つの結論に至るように全体を統一することにチャレンジしたのでした。
それによって生み出された2つのソナタを較べてみれば、作品番号27の2の方が強力なソナタ形式によってより明確にその到達点を明示し得たという点でのみ、ほんの少しの前進があったのかもしれません。
- 第1楽章:Andante
「Andante - Allegro - Andante」というシンプルな「ABA」の構造です。すべてのフレーズがppで始まることで幻想的な雰囲気を漂わせます。 - 第2楽章:Allegro molto e vivace
ベートーベンが楽章の終わりを示す終結複縦線を示していないのですが、テンポや調整、ダイナミクスの違いで明らかに異なる楽章であることが理解できます。
旋律的要素の少ない「いらだったような音楽」ですが、これは明らかにスケルツォ楽章だと判断できます。 - 第3楽章(第3楽章序奏):Adagio con espressione
深い感情に包まれた叙情詩のような音楽であり、この部分だけで3部形式の独立した楽章と見なすことも可能です。
ダイナミクスはfとpの間を揺れ動き、やがて瞑想から醒めたようなカデンツァによって次の音楽に引き継がれます。 - 第4楽章(第3楽章):Allegro vivace
この楽章こそがこの作品の到達点であり、それ故に、フーガの展開部を伴ったロンド形式という手の込んだ音楽になっています。
そして、この最終楽章に向かって全体を統一するというやり方を彼は最後まで試し続けることになるのです。
見晴らしのいい爽快で新鮮でしかも深いベートヴェン
ブレンデルのソナタ全集を紹介したときにグルダの全集に関しても少しばかりふれました。
一般的にグルダによるベートーベンのピアノ・ソナタ全集は1967年に集中的に録音されたAmadeoでのステレオ録音と、1954年から1958年にかけてモノラル・ステレオ混在で録音されたのDecca録音の二つが知られていました。しかし、最近になってその存在が知られるようになったのがここで紹介しているた1953年から1954年にかけてウィーンのラジオ局によってスタジオ収録された全曲録音です。
この録音は、きちんとセッションを組んで以下のような順番で全曲が録音されたようです。
- 1953年10月8&9日録音:1番~3番
- 1953年10月15&16日録音:4番~7番&19番~20番
- 1953年10月22日録音:8番~10番
- 1953年10月26日録音:11番
- 1953年10月29日録音:12番~13番&15番
- 1953年11月1日録音:14番
- 1953年11月6日録音:16番~18番&21番
- 1953年11月13日録音:22番&24番~25番
- 1953年11月20日録音:23番&27番
- 1953年11月26日録音:30番~31番
- 1953年11月27日録音:26番&32番
- 1954年1月11日録音:28番~29番
グルダは年代順にベートーベンのピアノ・ソナタを全曲録音するという構想を立てていて、それを実際に行ったのは1953年のことでした。その年に、グルダはなんとオーストリアの6都市でベートーベンのピアノ・ソナタ全曲演奏会を行うことになるのですが、おそらくはその集大成として1953年10月8日から1954年1月11日にかけて、セッション録音を行ったのでしょう。
しかしながら、その全曲録音が終了した1954年からグルダはDeccaで同じような全曲録音を開始するのです。
この1953年から1954年にかけて録音を行ったウィーンのラジオ局は、当時は依然としてソ連の管理下にあったこともあってか、結局は一度も陽の目を見ることもなく「幻の録音」となってしまったようなのです。
それでは、その「幻の録音」が何故に今頃になって陽の目を見たのかと言えば、録音から50年が経過しても未発表だったのでパブリック・ドメインとなったためでしょう。そう考えてみると、著作権というのは創作者の権利を守るとともに、一定の期間を過ぎたものはパブリック・ドメインとして多くの人に共有されるようにすることには大きな意味があるといえるのです。
さて、私事ながら、ベートーベンのピアノ・ソナタ全曲の「刷り込み」はグルダのAMADEOでのステレオ録音でした。つまりは、全曲をまとめて聴いたのがその録音だったのです。
理由は簡単です。その当時、AMADEOレーベルから発売されていたこの全集が一番安かったからです。(それでも1万円ぐらいしたでしょうか。昔はホントにCDは高かった)
ただ、買ってみて少しがっかりしたことも正直に申し上げておかなければなりません。なぜなら、その当時の私の再生装置では、なぜかピアノの響きが「丸く」なってしまって、それがどうしても我慢できなかったからです。
その後、CDプレーヤーは捨ててファイル再生に(PCオーディオ)へと移行していく中で、意外としゃっきりと鳴っていることに気づかされて、そのおかげでグルダの演奏の凄さが少しは分かるようになっていったものでした。音楽家への評価と再生装置の問題は意外と深刻な問題をはらんでいるのです。
当時のHMVのキャッチコピーを見ると「録音から既に長い年月が経過していますが、その間にリリースされた全集のどれと較べても、全体のムラのない完成度や、バランスの見事さ、響きの美しさといった点で、いまだに優れた内容を誇り得る全集だと言えるでしょう。」と書いています。
CDプレーヤーでお皿を回しているときは、この「バランスの見事さ、響きの美しさ」と言う評価には全く同意できなかったです。ただし、今のシステムならば十分に納得のいくものとなっています。
そして、それとほぼ同じ事がこの若き日の録音にもいえるのです。
1953年から1954年と言えば、バックハウスやケンプが現役バリバリで活躍していた時代でした。彼らのようなドイツの巨匠によるベートーベンは、シュナーベルやフィッシャーなどから引き継がれてきたドイツ的なベートーベン像でした・・・おそらく・・・。
そして、それ故に彼らのソナタ全集は多くの聞き手から好意的に受け入れられ、その結果としてメジャーレーベルから華々しく発売されることになったのです。
そう言う巨匠達の演奏と較べれば、このグルダのベートーベンは全く異なった時代を象徴するような演奏でした。
もしもバックハウスの演奏が「絶対的」なものならば、このグルダの演奏は明らかに異質な世界観のもとに成り立っています。
全体としてみれば早めのテンポで仕上げられていて、シャープと言っていいほどに鋭敏なリズム感覚で全体が造形されています。そして、ここぞと言うところでのたたみ込むような迫力は効果満点です。この、「ここぞ!」というとところでのたたき込み方は67年のAMADEOでのステレオ録音よりもこの50年代のモノラル録音の方が顕著です。
つまりは、それだけ覇気にあふれていると言うことなのでしょう。
ですから、バックハウスのようなベートーベンを絶対視する人から見れば、この演奏を「軽い」と感じる人もいることは否定しません。
たとえば、グルダの演奏を「音楽の深さや重さを教えているものではなく、極めて口当たりの良い軽い音で、しかも気軽に聞けるように作り直している」と評価している人もいたほどでした。それは、67年の録音に対してのものでしたから、それとほぼ同じスタンスで演奏した50年代の初頭の録音ならば(それは結局は陽の目を見なかったのですが)、大部分の人がそのような「否定的」な感想を持ったのだろうと思います。
しかし、ベートーベンはいつまでもバックハウスやケンプを模倣していないと悟れば、このグルダの録音は全く新しいベートーベン像を呈示していることに気づかされます。
つまり、シュナーベルから引き継がれてきたドイツ的(何とも曖昧な言葉ですが・・・^^;)なベートーベン像だけが絶対的な「真実」ではないと悟れば、このグルダが提供するベートーベン像の新しさは逆に大きな魅力として感じ取れるはずです。何故ならば、重く暑苦しい演奏は数あれど、ここまで見晴らしのいい爽快で新鮮でしかも深いベートヴェンはこれが初めてかもしれないのです。
そう言う意味で、録音から50年が経過して、著作権の軛から解放されてこの演奏が陽の目をみることが出来たことは喜ばなければなりません。