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ドヴォルザーク:交響詩「野ばと」 Op. 110
ヴァーツラフ・ターリヒ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1951年4月2日~3日録音をダウンロード
本当は恐い昔話
アメリカでの充実した生活と活動を終えて、1895年にドヴォルザークは帰国します。しかし、そこから亡くなるまでには9年の歳月があったのですが、すでに作曲家としてのピークは過ぎていたようで、それほどめぼしい作品は残していません。
そんなドヴォルザークの晩年において注目すべき作品が、チェコの国民詩人と言われたエルベンの詩集「花束」にインスピレーションを得て書き上げた4曲の交響詩でした。
エルベンの「花束」は民間伝説や民話に基づく詩集であり、チェコの独立運動の高まりの中で民衆の魂を歌い上げたもので、13編から成り立っていました。
- 花束(エルベンによる序詞)
- 財宝
- 花嫁衣装
- 昼霊(真昼の魔女)
- 金の糸車
- クリスマス・イヴ
- 野鳩
- ザーホシュのベッド
- 水の精(河童)
- 柳
- 百合
- 娘の呪い
- 巫女
ドヴォルザークはこの中から以下の4編を選び出して交響詩に仕立て上げました。
- 交響詩「水の精」, Op.107(B.195)
- 交響詩「真昼の魔女」, Op.108(B.196)
- 交響詩「金の紡ぎ車」, Op.109(B.197)
- 交響詩「野ばと」, Op110(B.198)
しかしながら、その物語はメルヘン仕立てであるものの、その中味は結構恐い話ばかりです。それは、子供の首が切り落とされたり、夫を毒殺したりと、どう考えてもお子様向けではありません。
しかし、考えてみれば、日本でも昔話というのは結構恐い内容を含んだものが多くて、例えば「かちかち山」などは、「婆汁食べた、婆汁食べた!流しの下の、骨を見ろ!」なんて嘲り笑いながらタヌキが逃げていくのですから、よい子の皆さんには原作のままでは読ますのには躊躇いを覚えます。
そこで、「婆汁」のところはもう少し婉曲にし、最後の場面もタヌキの改心で決着するという「改変」が行われたりしています。
しかし、そう言う闇の部分にもまた民衆というものが持つ本質的な部分があるのであって、それはグリム童話などにおいても同様です。そして、このエルベンの「花束」はそう言うグリム童話よりも恐いかもしれないのであり、そう言う民間伝説に基づいたバラードに最晩年のドヴォルザークが強い興味を持ったと言うところに、常に何か満たされない思い、喪失感のようなものを抱き続けたドヴォルザークの本質のようなものを感じとるのは深読みに過ぎるでしょうか。
交響詩「野ばと」, Op110(B.198)
ドヴォルザークがこの時期に書いた4曲の交響詩の中ではもっとも引き締まった構成をもっています。それは、たった一つの芽から全曲が構成されていることに起因するようです。
そして、それが可能となったのは、この物語もまたシンプルなストーリーだったことによります。
物語は、夫の死を嘆く若い未亡人の姿から始まります。しかし、その涙は偽りの涙であり、実は若い美形の男と結ばれるために妻が毒殺をしたのでした。そして、目論見通り未亡人は若い男と結婚するのですが、亡くなった先夫の墓の上に樫の木が生えてきます。
そして、いつしかその樫の木に野鳩が巣を作り、悲しげな声で鳴くようになります。やがて、妻はその声を聞き、発狂して自殺してしまうのです。
音楽はこの物語を忠実になぞるように葬送行進曲から始まります。この葬送行進曲は葬送のリズムをあらわすホルンとティンパニで始まるのですが、そのあとにフルートとヴァイオリンによって奏でられる「未亡人の主題」がこの作品全体の芽となっています。そして、エルベンの原作ではこの段階では妻が夫を毒殺したことは伏せられているのですが、ドヴォルザークは「未亡人の主題」を「運命の動機」へと変容させることで妻の罪の意識をあらわします。
そして、その未亡人に言い寄る若い男の主題も最初の芽から派生したものです。そして、この若い男の主題と恋する未亡人の主題がやがて結びあう中で、未亡人の心のざわめきと結婚の祝宴が表現されていきます。
そして、やがて野鳩の声に良心の呵責を覚えて、彼女は発狂して身を投げるのですが、その後、「運命の動機」が和らげられることで、彼女の罪はその死によって償われたことを暗示して曲は閉じられます。
あまり強い民族色は出さないようにしている
ドヴォルザークという作曲家は知名度は抜群であり、彼の代表作である「新世界より」などはオーケストラにとってはなくてはならない「飯の種」になっています。しかしながら、それほどまでに有名であるにもかかわらず、それではそれ以外の作品となると、少し認知度が下がります。
チェロ協奏曲、弦楽四重奏曲「アメリカ」、交響曲第7番や8番当たりまでは出てきても、その次となるとなかなか名前が上がってきません。
つまりは、「ドヴォルザーク≒新世界より」みたいな図式が出来上がっているようで、例えばここでターリッヒが録音してくれた晩年の交響詩などは取り上げられる機会は非常に少ない作品です。
しかしながら、その中でも交響詩「野鳩」はまだしも演奏機会の多い作品なのですが、パブリック・ドメインとなっていいる録音を探すのはかなり難しいのが現実です。
その意味では、1950年代の初頭に、このドヴォルザーク最晩年の交響詩全4曲を残してくれたターリッヒには感謝あるのみです。
- ドヴォルザーク:交響詩「水の精」 Op. 107
ヴァーツラフ・ターリヒ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1954年5月4日録音 - ドヴォルザーク:交響詩「真昼の魔女」 Op. 108
ヴァーツラフ・ターリヒ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1951年4月4日録音 - ドヴォルザーク:交響詩「金の紡ぎ車」Op. 109
ヴァーツラフ・ターリヒ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1951年3月20日録音 - ドヴォルザーク:交響詩「野ばと」 Op. 110
ヴァーツラフ・ターリヒ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1951年4月2日~3日録音
ただし、残念なのは、1954年に録音されている「水の精」はライブ録音のために音質があまりよろしくないことです。しかし、残りの3曲は1951年の録音ですがスタジオ録音なので音質的には何の問題もありません。
「水の精」に関しては1949年に録音していますから、そちらの方も一度チェックしておいた方がいいのかもしれません。
ターリッヒの演奏については、ここではあまり強い民族色は出さないようにしているようです。
話が話だけに、もう少しホラー色がでるように灰汁を強めてもいいかと思わないでもないのですが、おそらくはそのあたりのディープな世界に踏み込んでしまうと一般的には受け入れられるのが難しいと考えたのかもしれません。
その意味では。彼のあとを継いだクーベリックやノイマンの方が思い切ってそう言う世界に踏み込んでいるように思えます。
ただし、彼らがそうやって踏み込めたのも、このターリッヒの露払いがあったからかもしれません。
些か古風な感じはすると思うのですが、全体の見通しよくするために無駄な表現は意図的に避けて、非常に男っぽい引き締まった音楽になっています。
私としては、民族の誇りを前面に押し出すスタイルの演奏を多く聞いてきただけに意外な感じがしないでもなかったのですが、これもまたもう一つのターリッヒの顔なのでしょう。